論評:労働時間
労働者の権利の道しるべ:第1号条約
100年前に開かれた第1回ILO総会で採択された最初の条約は労働時間に関するものでした。ILOでこの画期的な瞬間を記念するイベントが開かれるに際し、ジョン・メッセンジャーILO労働時間専門官はこの第1号条約の歴史とその影響力を振り返ります。
100年前の1919年11月28日にワシントンで開かれた第1回ILO総会で各6本の条約と勧告が採択されました。真っ先に採択されたのは労働時間に関する条約でした。
どこでどんな仕事をしようとも労働時間の問題は付きものです。しかし、労働時間に上限を設定することのルーツが最初のILO条約である「1919年の労働時間(工業)条約(第1号)」にあることに気づいていらっしゃる方は少ないかもしれません。
1914年の第一次世界大戦勃発以前から労働時間の制限、最も顕著には1日8時間の上限の設定は、国際労働組合運動の主要な要求事項の一つでした。戦争が終結しベルサイユ平和条約の一部としてILOが設立されようとしていた時、複数の国で大規模な労働不安の兆候が見られ、この問題が再び表面化しました。後にILO憲章となった、条約第13編の第427条に「特別かつ緊急の重要性」がある一般原則として列挙されている九つの原則の中には、「1日8時間または1週48時間をまだ達成できていないところでは、これを目指すべき基準として採用すること」が含まれています。
この問題は数カ月後の1919年10月29日~11月29日にワシントンで開かれた第1回ILO総会の議題に含まれ、この原則が盛り込まれた条約が採択されたのです。
国際競争上の理由から5年前には目標としても現実のものとしても無理であろうとして取り組みが放棄されたことを思えば、第1号条約の採択は際だった業績であり、労働組合運動はついにその最優先の目標を国際的に認めさせることに成功したのです。
しかしながら、第1号条約の批准はアルベール・トーマILO初代事務局長が期待したほどに進みませんでした。間もなくやって来た大恐慌によって使用者側は労働コストの引き上げに後ろ向きになり、その上、一部の加盟国、そしてドイツや英国を中心として労働運動の中でさえ、労働時間を短縮する最善の方法は法律よりもむしろ労働組合の活動や団体交渉を通じた方がいいと考えられるに至りました。100年経った今日でもなお、この条約の批准国は187加盟国中46カ国に留まり、日本も批准していません。
批准国数は少ないものの、第1号条約は1日8時間労働の普及に相当大きな影響を与えました。1919年以前に労働時間を1日8時間に定める法があった国はキューバ(1909年制定)、パナマ(1914年制定)、ウルグアイ(1915年制定)、エクアドル(1916年制定)の4カ国に過ぎませんでした。1918年11月の休戦記念日から第1回総会の討議資料が準備されていた間に、適用範囲は様々ながら1日8時間労働を定める法がオーストリア、チェコスロバキア、デンマーク、フランス、イタリア、オランダ、ノルウェー、ポーランド、ポルトガル、スペイン、スイスといった国で成立しました。原則の適用は英国や米国でも広まりました。英国の労働力人口は当時1,200万人でしたが、うち400万人以上の労働時間が協約で8時間に引き下げられ、米国でも1日の労働時間を8時間とする協約が適用される労働者の数が1915年には17万2,000人であったものが1918年には114万人に膨らみました。「1918~19年の間に労働協約あるいは法によって1日8時間労働が工業国の大半で現実のものとなった」とトーマ事務局長は記しています。
1922年までには、とりわけ工業においては欧州全土、そしてオーストラリアやニュージーランド、中南米の多くの国で週48時間労働が一般的になり、日本やインドでさえも労働時間は大幅に短くなりました。
ILOのジョン・メッセンジャー労働時間専門官は2019年11月13日付の論評記事でこのように初期の時代を振り返り、ILOと第1号条約が1日8時間労働の主要な推進要素であったことは明らかと記しています。この労働政策の標準化・推進を通じて、幅広い実施に至り、今日では世界中の国で1日8時間労働が基準になっています。
ジュネーブのILO本部では、2019年11月14日に第1号条約採択100周年を記念して、この条約の影響について振り返るイベントが開催されました。日本でも共に創立100周年を迎えたILO駐日事務所と法政大学大原社会問題研究所の共催事業として、2019年11月11日に開催した第32回国際労働問題シンポジウムのテーマを「ILOと日本-100年の歴史と仕事の未来」として第1号条約と労働時間の問題などを取り上げました。
以上はメッセンジャー労働時間専門官による上記英文論評の抄訳です。