技術協力のパイオニア

白百合川で働いて

 ILOの100年の歴史を振り返る広報記事の第4弾として、長い歴史の中に登場した数々の非凡な職員の中から、1950年代にアジア各国で協同組合の育成を手助けした経験を、1965年に刊行した回想録『River of the White Lily: Life in Sarawak(白百合川:サラワクにおける暮らし・英語)』で振り返ったピーター・グラートを取り上げます。

ピーター・グラート(前列中央)と協同組合員

 第二次世界大戦後、加盟国数が増えるにつれ、基準や規範に留まらず技術協力に関してもILOの専門知識が求められることが増え、ILOはより幅広い技能を有する職員を新たに探してとりわけ途上国から出されたこの要求に応えました。

 そのようにして採用された職員の1人であるピーター・グラートは、モスクワとパリで幼少期を過ごし、ロシアと中国の二つの革命から逃れ、ロシア語、英語、フランス語、そして中国語の各種方言に堪能でした。中国のヒマラヤ山脈の丘陵地帯における産業協同組合で経験を積んだ後、1955年にマレーシアのサラワク州で地元の中華系農民やゴム液採取人、そして海ダヤク族、陸ダヤク族、マラナウ族、ケラビット族、カヤン族、ケダヤン族などの先住民族の間で協同組合組織の育成を支援するために採用されました。

 ILOジュネーブ本部のアジア協同組合現地派遣部長は次のようにグラートの採用を推薦しています。「この人物は疑いなくタフで、最も粗末な状況にも耐えられ、木の根や砂利をかじって生き抜き、普通の人なら死んでしまうような水でも飲めるような人」であり、全く皮肉でなしに、「総論として、採用に値すると思われる」。

 グラートはその回想録の中で、自らの任務について次のように回想しています。「人々が公正な値段で商品を購入できるような店舗を始める可能性を見出すために僻地に出張することを伴いました。人々自身がこの店舗を所有することになるため、地域社会の後援を得るのが必要不可欠でした。後にこの店舗が、主としてゴムや胡椒といった組合員の生産物を販売する施設に発展することも期待されていました」。

 グラート自身、自らの使命が、行政制度が扱い慣れているものとは異なることに早くから気づいていたように思われます。州都クチンに飛ぶ前にジュネーブの本部に手紙を書いて、異様なほどに広範な医薬品一式に対する要請について説明するに当たり、「密林の大河や小川を小型のカヌーであるいは不安定な均衡を保つ丸太や厚板が渡された密林の湿地帯を何マイルも徒歩で移動するなどして大いに出張し、密林の中の農家の小屋で休み、時にはよどんだ水を使い、虫に刺される可能性があります」と説いています。しかし、何もかもが違っているわけではなく、サラワクの密林の中でさえ、書類仕事から逃れることはできず、奥地への出張に向けて荷物を準備する時には、「私たちの商売道具である協同組合に関する規則や定款の写し、たくさんの鉛筆と書き物用の紙の予備」を詰め込んだと記しています。

 グラートは計9回の出張で、ビルマ(現在のミャンマー)、インド、マラヤ(現在のマレーシア)、パキスタンで働きました。しかし、1年間に及んだサラワク州での契約が最も困難であったと同時に最も報われ、多彩だったようです。ほとんどの人が友好的で、(彼自身がバラエティーを増すために、フランス料理を教えたこともありましたが)料理は驚くほどおいしかったと記されています。奥地への最初の旅における川を渡るフェリーの中で「揺れる灯火、豚の足、臭い魚」と一夜を共にした後、ILOの起草した規則や定款、仕組みを用いて、45人以上の地元の中華系農民がカシア・オーキッドの丘協同組合店舗を設立するよう説得するのに成功しました。この組織は白百合川協同組合と共に、他の共同体の参加を説得し、協同組合の運営を訓練する際の見本として用いられました。しかし、グラートの出張報告には多くの複雑な事態も記録されています。そのうちの幾つかは現地事業が今でも直面している事態であり、協同組合と従来店舗との間の価格戦争、土地及び種族間のライバル関係、低い教育水準、そして、「全く秩序だっていない会計処理、みすぼらしい小部屋の店舗」などが含まれています。時代と場所に特有の障害として、協同組合員が強盗団に待ち伏せされ、襲撃され、刺されたり、そのほかの嫌がらせを受けたことも記録されています。

 葉巻を口に、めがねをかけ、丸々と太った専門家にとっては、労働条件も個人的に課題でした。村に着くまでに14日間もかかる場合もあり、使われている言語は100以上に上り、会議は通常夜遅くに始まり、時には明け方まで続きました。既存の店舗主や仲介人は協同組合を潜在的な競争相手と認めて敵対的な場合があり、時に会議は殴り合いに発展し、これに油を注ぐものとして、地元のビールはいつでもどこでも得られたと回想録には記されています。

 ビナタン近くで協同組合員と共に祝宴に出席した時には、お酢を頼んだのに対して、誤ってゴム作りに使用されている希釈されていない塩酸を出されてしまい、その夜泊まった地元の民家の息子は超能力と放火癖があったそうです。木造家屋にとっては危険なこの夜は何とか無傷に切り抜けられたものの、サンコン川では、ある鳥の鳴き声が災いを予告するものとの海ダヤク族の忠告を無視したために、間もなく砂州に乗り上げて船が座礁してしまいました。

 先住民社会への協同組合の普及における成功は特別の挑戦ももたらしました。最初の海ダヤク族の協同組合はジャラウ川に作られた共同住宅で合意されましたが、毒蜘蛛や犬、闘鶏、うるさい亀などを処理し、ほとんど朝の5時まで新しい委員会と作業をした後、寝床の上に一見ココナツの実でいっぱいの大きな竹かごがぶら下がっているのを見て、眠っている間に毒虫が落ちてくる危険性をその家の主人に指摘したところ、微笑んでちょっと誇らしげにこう答えたと記されています。「それはココナツの実ではありませんよ。この間の大戦の時に集めた敵の頭蓋骨です」。そこで仕方なく、とにかく眠ったそうです。

 ILO勤務中にグラートはサラワクのみならず、ビルマ(現在はミャンマー)やインド、パキスタンで何十もの協同組合の設立を支援し、助言を提供しました。今日でも協同組合はILOの活動の重要な一部であり、世界中で少なくとも2億7,900万人に雇用を提供していると見られます。


 以上は2018年12月24日付のジュネーブ発英文広報記事の抄訳です。