活躍する日本人職員 第2回 小山淑子

小山淑子
国際労働機関アジア太平洋地域総局
危機対応専門官






 
略歴

東京都出身。東京都立白鷗高等学校、筑波大学第三学群国際関係学類を卒業後、民間企業での勤務を経て、2001年に英国ブラッドフォード大学にて修士号取得(MA in Conflict Resolution)。修士課程在籍中の1999年に「グルジアおよびタジクの紛争解決研究」で第1回秋野豊賞を受賞。ボン国際軍民転換センター(Bonn International Center for Conversion)でのインターンシップ、国連軍縮研究所(UNIDIR)にてカンボジアやアルバニアでの小型武器の調査、コンゴ民主共和国のPKOでの武装解除などに従事した後、2006年ILOジュネーブ本部の危機対応再建部に着任。元兵士の社会統合をはじめ、各地の武力紛争・自然災害後の復興を、雇用と生業の面から支援。2011年より現職。2012年より、東日本大震災復興過程における雇用・労働の教訓を発信するプロジェクトの責任者を兼務。著書に“Comparative Analysis of Evaluation Methodologies in Weapon Collection Programmes,”United Nations Institute for Disarmament Research, Geneva (2006)、“Just a matter of practicality: women’s usefulness in weapons collection programmes”in Vanessa Farr, Henri Myrttinen and Albrecht Schnabel (eds.), “Gender Perspectives on Small Arms and Light Weapons”, United Nations University, Tokyo (2009) など。
 

国際機関で働くようになったのは、どのような経緯からですか?


最初の国際機関勤務の経験は、スイスのジュネーブにある国連軍縮研究所(UNIDIR)でした。UNIDIRは国連事務局の軍縮局(当時)、ジュネーブの軍縮会議を、調査を通じてサポートする役割を担っています。イギリスの大学院で博士課程に在籍中に、UNIDIRでリサーチ・インターンをしていました。その時に携わっていた小型武器分野のプロジェクトが始まるということで、空席ポストに応募し採用されました。

2005年からは、当時国連がコンゴ民主共和国で展開していた国連平和維持活動(PKO)ミッション(MONUC)で、安全保障部門の改革に実践で関わることの出来る機会を得て、コンゴの首都キンシャサに赴任しました。

MONUCの任務の一つは、「コンゴ内に残存する外国ゲリラ兵を出身国に送り返す」というものでした。悲惨なジャングル生活、武力攻撃などにも関わらずなかなか帰還しようとしないゲリラ兵達は、何故投降して帰還しないのか。それは、「国に帰って仕事があるなら今すぐにでもゲリラを辞めて帰りたいが、仕事がないから。」というものでした。それならということで、仕事の分野を担当する国際機関であるILOに、JPO制度を通じて入局しました。



Photo: コンゴ東部のフィールドオフィスで、ミリタリーオブザーバー、DDRチームメンバーと
 

ILOでの任務についてお聞かせください。
 

2007年よりILOのジュネーブ本部に着任し、4年半の勤務の間、主にアフリカ、南アジアの国々での武力紛争後の復興支援に従事しました。元兵士の社会統合と職業訓練などを国レベルで実施したり、そうした政策・プログラムのために国連ガイドラインの策定・改定などを行いました。また、現場で実施にあたる国際機関や各国の実務者、イラクやアフガニスタンで勤務するアメリカの軍人の方達への研修等なども担当しました。

停戦して間もなくのスリランカでの仕事は、特に印象深いものでした。反政府ゲリラLTTEとの武力紛争を経て停戦となった数ヶ月後、LTTEの戦闘員達を武装解除して社会復帰させるという政府の政策とプログラム作成を要請されたのを受け、のべ数ヶ月間出張しました。当時、LTTEの影響下にあった地域では、まだ掃討作戦が実行されていました。ホテルの部屋の窓からは、目の前に建つ空軍の施設の壁に、数ヶ月前に自爆機が突っ込んだ時に出来た大きな穴がぽっかり空いているのが見えました。

実際の戦場では、住民も戦闘員も混在し、誰が攻撃すべきテロリストで誰がそうではないかという明確な線引きはできません。テロリストを一掃するため、その地域全体が爆撃され、生き延びた人達は、テロリスト容疑者ということで収容所に入れられました。私たちの仕事は、その収容所に入れられた人の武装解除と社会復帰の道筋を付けることでした。政府関係者と折衝し、政策文書を書くのですが、その作業をしている一分一秒の間に、同じ陸続きの土地で、自分たちの政策対象者となる人たちが、生死の境にあるのです。一分一秒が勝負でした。自分たちの書く政策、プラン次第で、どれだけ早く収容所から人を出せるかが変わって来るのです。

ろくに食事もとらず、寝ずの作業で2週間ほど過ごしたある日、政策策定を巡る折衝も困難を極め、私はとうとう同僚に、「無理だよ、こんなの!」と言ってしまいました。その時彼女に、「諦めないで!」と言われ、はっとしました。しかし、こんな状況で諦めないなんて可能なのか…。その後、上司、同僚たちと交渉を続け、政策は政府に承認されました。スリランカ出張が終わり、作業をサポートしてくれたスリランカ人の同僚がプレゼントをくれました。タコのぬいぐるみでした。「僕たちの国のために、あんなに一生懸命にやってくれてありがとう。」その時初めて、自分達のした仕事は、誰かに感謝してもらえることなのかと思いました。そのタコのぬいぐるみは、今でも私のオフィスに飾ってあります。

2011年、タイのバンコクにあるILOアジア太平洋地域総局へ赴任することになりました。アジア太平洋地域は世界で一番自然災害の被害に対して人的にも経済的にも脆弱です。したがって現在の私の業務も自然災害対応で占められており、赴任して以来、タイとパキスタンでの大洪水、フィリピンの洪水、地震、台風対策に関わってきました。

2012年からは、東日本大震災における復興の取り組みを調査するプロジェクトも担当することになり、日本への行き来も増えました。これは、ILOが日本で実施する初めての技術協力プロジェクトです。日本における復興の教訓を海外の方々と共有すべく、2014年2月には、アジア諸国から雇用・労働関係者をお招きし、岩手県釜石市を視察しました。この数日前、参加者の出身地のひとつフィリピンでは、甚大な被害を及ぼした台風30号からちょうど100日目を迎えていました。地元の方々と直接交流する中で、フィリピンからの参加者から、「今は自分の国で復興が可能だとはとても思えないが、数年後にはこのように再建することができるんだと、今日この目で見てわかった。人として、勇気をもらった」という言葉をいただきました。

ちなみに、アジア太平洋地域での主に自然災害対応の任務に就く、という契約書にサインをしたのは2011年3月10日。翌朝テレビをつけて最初に目に入ったのは、幾重にも連なる津波の画像でした。テレビの実況が、「福島県南相馬市の上空です」と言っていました。南相馬市は私の母の郷里です。震災の一ヶ月後、4月11日にバンコクに赴任しました。つくづく、人生とは不思議なものだなあ、と思います。

ILOがなぜ復興支援を?とよく聞かれます。先の東日本大震災でも明らかなように、立ち上がるのは人々であり、人々が立ち上がるのに不可欠なのが仕事です。震災プロジェクトで訪れた岩手県大槌町で聞いた地元女性から、「普通に戻りたい」という言葉を聞きました。震災後、様々な援助機関や地域の会合で、「どのような街づくり、復興をしたいのか」と問われ続けた地元の人々の正直な気持ちは、「自分たちは被災したからといって、一夜で街づくりの専門家になったわけではない。もとから自分の町をどうしたいか、しっかり考えていたわけでもない」というものでした。自分達は、ただ、ふつうに、今までどおり、ふつうの人として、暮らしたいんだ。」援助機関はあくまで脇役、ましてや主人公では有り得ません。そのことを認識し、伴走者として人々に寄り添い、同じ目線で復興の道のりを歩むことができる国際機関がILOだと思っています。




Photo: 震災プロジェクトのスタディツアーで訪れた岩手県釜石市で、海外からの参加者と
 

それでは、国際機関に入るまでは、どのような学生生活を過ごされましたか?


仕事のことをお話しすると、「すごい経歴ですね」「学生時代はさぞかし優秀だったんでしょうね」「帰国子女で、英語がネイティブ並みなんでしょう」ということをよく言われます。しかし実際は、授業には興味のあるもの以外はほとんど出ず、キャンパスへ向かうのは大学の中庭の芝生でみんなと会いランチを食べるためだけという学生生活でした。

留学先のアメリカの大学では、授業の課題提出も、あまりにも英語で書けないので、履修していた政治学の授業では、最初の学期は教授に「日本語で書いて日本人の学生に翻訳してもらいなさい」と言われました。悔しかったです。最後の学期には同じ先生に、「もう、あなたのできる表現方法でいいから、何か提出しなさい」と言われました。そこで、文章をそれほど書かなくてもいい紙芝居で課題を提出しました。するとその教授、その作品を非常に高く評価してくださり、この紙芝居を資料として保存しても良いか、とおっしゃって下さいました。その人に向いているとされる表現の機会を与え、更に、その結果を受け入れ評価するという、アメリカの懐の深さを感じました。

留学から戻ると、周囲は就職活動の真っ最中でした。私はといえば、勉強も就職も思うように行かず、がんばりたくても力が出てこない自分が情けなくて仕方がありませんでした。そんな鬱々とした内面は見せず、明るく取り繕って能天気に振る舞っていたある日、卒業論文の指導教官だった秋野豊先生がPKOでタジキスタンに赴任されることになり、ご出発前のご挨拶に行きました。ふと先生は、「君には何かあると思うんだけどなあ」とおっしゃいました。この言葉が、私の中の、自分自身への信頼をつなぎ止めたように思います。


国連職員になるには、どのような資質が求められると思いますか?
 

国際公務員になるに際し、出身大学、学部はあまり関係ありません。日本とは人事文化が大きく違なるからです。そもそも、日本で有名とされる大学の名前を言っても、海外で通用するとは限りませんし、また海外の有名大学を出たからといっても、そのネームバリューで採用されるような人事文化ではありません。重要なのは、「あなたは何を持っているのか、我々に何が提供できるのか。」ということです。

成績表では評価しづらい能力も、国際機関で働くには有効のようです。国際機関で残っていく人に多いのは、優秀なゲームプレーヤーではなく、ゲームのルールを書く人です。競争が激しい国際機関では、教科書通りの正解を出すのではなく、自分で教科書を書くことが求められています。ですので、国連職員には「つっこみ力」と「とんち力」が、大きな味方になると感じでいます。物事を額面どおりに受け取らずクリティカルに見る力と、これまでのやり方にこだわらず問題の解決方法を探る力です。

最後に、国連職員になるというのを、目的でなく手段にするのがいいでしょう。国際機関は情熱がないと生き残り続るのは難しいくらい、困難なところでもあります。国連職員になって何をしたいのか、長く楽しく働き続けるために、どうすればよいのか、それをまずご自分とよく話し合ってみるといいのではないでしょうか。


さいごに、国際機関で働くことの魅力について教えてください。


国際機関には、それぞれの生き方が尊重される風土があります。結婚していても、いなくても、子供がいてもいなくても、それでどうこう言われることは男女共にありません。そして、世界で働いていると、想像以上に価値観の合う親友、仲間が見つかることもあります。世界には様々な価値観があるのだという発見に、日々満ちています。仕事内容はもちろんですが、こうした職場環境や多様な働き方、ライフスタイルが、国際機関で働くことを魅力的にしています。大変なこともありますが、大変なことのリスト、魅力的なことのリストと比べると、私にとっては、後者の方が長いのです。近い将来、世界を舞台にみなさんと一緒に働けることを、楽しみにしています。