「100周年を迎えたILOに期待すること」

第4回 樋口美雄 独立行政法人労働政策研究・研修機構理事長


樋口 美雄(ひぐち・よしお)独立行政法人 労働政策研究・研修機構 理事長

1980年慶應義塾大学大学院商学研究科博士課程修了、1991年-2018年慶應義塾大学商学部教授。1991年商学博士。専門は労働経済学、計量経済学。2018年4月独立行政法人労働政策研究・研修機構理事長に就任、慶應義塾大学大学院特任教授、慶應義塾大学名誉教授。コロンビア大学経済学部客員研究員、スタンフォード大学経済政策研究所客員研究員、オハイオ州立大学経済学部客員教授を経て、慶應義塾大学商学部長・大学院商学研究科委員長、日本経済学会会長、内閣官房統計委員長、厚生労働省労働政策審議会会長等を務めた。2016年秋の紫綬褒章を受章。最近の著書として、『格差社会と労働市場―貧困の固定化をどう回避するか』(共著、慶應義塾大学出版会、2018年)他多数。

ILOは2019年、創立100周年を迎えました。過去100年のILOの活動について、どのようにお考えですか?

 1919年の創立以来、ILOは世界の発展とあらゆる職、国、地域に属する人々にとって、保障されなければならない権利を示し、労働条件の改善と生活水準の向上に向け大きく貢献してきました。ILOの活動に関わってきた全ての人々の献身に対して、深い敬意を表したいと思います。
 他の国際機関にはみられないILOの独自性のひとつは、三者構成原則です。政労使三者の代表全てがILOの政策決定に関与しています。三者構成原則はILOの創立当初に導入され、今日の活動に至るまで徹底されてきました。三者構成原則は、三者全ての観点を踏まえた合意形成を促す限りにおいて、労働問題の解決のために最も効果的な手段のひとつです。労働問題の解決と社会正義の達成は世界を平和に導く、というILOの基本原則は、時代が移り変わっても人々とともに存在してきました。これからの100年に生きる全ての人のために、私たちは今一度この原則を再確認し、その実現に向けた取り組みを続けていかなければならないと思います。

今日の世界において、ILOの重要性を高める取り組みとは何でしょうか?

 グローバル化の進展により、市場における競争は近年一層激しさを増し、資本市場も国際化するようになりました。これに加え、急激な技術進歩が経済を発展させるとともに、一方で不均等な配分をもたらしかねない状況にあります。特に一部の国や地域では、未だに経済的にも時間的にも貧困が蔓延し、生まれたときから貧困状態にある人は本人の努力だけではそこから抜け出すことが困難な状況にあると指摘されています。
 そのような状況に対して、ILOは断固たる、積極的な対応をとってきました。その例のひとつが、ディーセント・ワークの実現に向けた取り組みです。多くの人々が、ディーセント・ワークの不足ともいうべき状況に直面しています。失業、不完全雇用、質の低い非生産的な仕事、危険な仕事、権利の欠如と不安定な収入源、男女不平等、移民労働者の搾取、表現の自由の欠如、そして病気、障害、老化に対する不十分な保護などが挙げられます。これらの問題の解決策を探るために、ILOはディーセント・ワークの実現に向けた戦略を打ち出し、あらゆる努力に対して、それぞれの国や地域の実際の状況に即した個々の計画に基づく支援を提供してきました。これらの取り組みは、世界平和に資するために社会正義を実現するというILOの原則に確かに合致しており、高く評価されるべきものであると思います。

日本にとって重要なILOの取り組みは何でしょうか?

 日本では現在、働き方の多様化・柔軟化を目指した働き方改革が進められようとしています。日本は低い出生率と高齢化で知られた国です。将来、労働人口の減少が進行するにつれて、あらゆる人々が能力と意欲を発揮できる環境の整備が必要となっています。他方で、働き方改革は、生産性を向上させ、同時に人々のウエルビーイングの向上を実現させるためにも喫緊の課題であると思います。日本では、1960年代の高度経済成長期から1980年代後半のバブル期、そしてその後の低成長期に至るまで、全ての従業員が連帯し、共通の目標に向かって働くことが、成功のための最善のビジネスモデルとされてきました。「皆で一緒に」という考え方は、職場にいる人たち全員に多くの共通した画一的な強制を課してきました。突然の業務入れ替えや異動、その他同様の機会が起きた場合であっても、自分の仕事を守るためには会社からの指示に従い、時には長時間労働により自分の生活を犠牲にすることが求められたのです。
 しかし、昨今の日本企業は、新興国などを相手とした価格競争、技術競争に打ち勝つことの困難に直面しています。日本は今、付加価値を強化するための新規性や改革を求められる時代に入りました。無駄な強制を見直し、チャレンジ精神を高めて、知識や経験の高度化を進めることも必要です。そして自分の生きがいを仕事に、そして生活に見いだし、個々人のウエルビーイングを高めることも重要です。日本の伝統的な雇用モデルは変革を求められつつあります。日本は多様な個々人のウエルビーイングを高めるように変わっていかなければなりません。未来の持続可能な社会を構築するためには、こうした働き方改革を今実施しないといけない時代を迎えています。

どのような仕事の未来を望みますか?

 仕事の未来がどのようなものになるか、誰にもわかりません。最近は、仕事の未来に関する多くの予想を耳にしますが、楽観主義から悲観主義まで多岐にわたっています。しかし、我々が現在直面する問題に応じて仕事の未来を予測することよりも大切なことがあると思います。つまり、我々が実現したい社会の姿をしっかりと打ち出し、それに向かって誰もが意欲と能力を蓄え、それを発揮し、ウエルビーイングの高い社会環境を作っていくことが大切です。
 私は経済学者として、未来の雇用政策や戦略について、各国の研究者たちと多くの議論を交わしてきました。そして、全ての国に共通した一貫した問題が起こりつつあるとの認識を持っています。出生率の低下と長寿化・高齢化、経済のグローバル化、そして加速する技術変化によって生じている課題です。さらには、これらの問題の解決方法も各国共通であり、個人が能力を発揮できる、そしてだれもが安心して豊かに暮らしていくことのできる社会をつくらなければならない、という結論に至りました。 そのような構想を実現するには、人々を育てる社会が必要です。私たちは、社会保障の充実により安心して生きていくことのできると同時に、自ら飛び立つ翼を強化することへの支援が必要です。これまでは、個人の雇用や収入を保証するための経済的シェルターを強化してきました。しかし、同時にますます、セーフティー・ネットを構築し、それを通じて社会が個人の自主性や独立性を支援することに注力していく必要があります。もちろん、それぞれの国や地域の状況に応じて具体的な対応は異なるかもしれません。
 そのような活力ある社会を創造するにはどのような政策が必要でしょうか?かつては、社会政策の策定に関連性のある唯一の関係は、政府と個人の対比でした。しかし現在は、個人に焦点をあてた政策が必要です。政府、企業、労働組合、学校、自治体、NPO、その他全ての人々の参加のもとに社会を結集し、協力・連携して未来を描いて前進するための戦略が求められると思います。