貿易取り決めにおける労働規定

 30年ほど前までは考えられないことでしたが、近年、労働関連規定を含む貿易協定が急増しています。ILOではグローバル化の社会的側面に関する研究を続けていますが、2013年11月に労働規定を伴う貿易協定について分析した報告書を発表しました。このトピック解説では同書の内容を中心にまとめています。

記事・論文 | 2016/03/31

I.ILOと社会条項

 社会条項、つまり、特定の社会基準を満足する義務を交易開始や特恵的な地位付与の前提条件にしようとの提案は古くから政策の場に繰り返し登場してきたものの、一部の二国間協定の成立を除けば、世界的なルールとして受け入れられるには至りませんでした。しかし、1986年から始まった「関税及び貿易に関する一般協定(GATT)」ウルグアイ・ラウンドの交渉内容に貿易と労働基準の問題を含めようとの運動が米国を中心とする一部先進国と労働組合から生じたことから貿易交渉の社会的側面に関する議論が激しくなりました。1980年代末から1990年代初めにかけてのこの問題を巡る地球規模の大論争は最終的に、1996年にシンガポールで開かれた世界貿易機関(WTO)の第1回閣僚会合で労働基準を扱う権限ある機関はILOであることを認める宣言が採択されたことから決着し、WTOではこの問題は扱われないことになりました。

 1990年代にはまた、1990年にニューヨークで開かれた子どもサミット、1992年にリオデジャネイロで開かれた地球サミット、1993年にウィーンで開かれた世界人権会議、1995年にコペンハーゲンで開かれた世界社会開発サミットと北京で開かれた第4回世界女性会議など、社会問題を扱う国連の会議が立て続けに開かれ、社会目的に資する経済政策の確保に向けた多くの発言が聞かれました。とりわけ、社会サミットとして知られる世界社会開発サミットは貧困、失業、社会統合といったILOの使命の中核にある問題を扱い、中核的労働基準の促進を含む一連のILOの中心的な懸念事項に関して合意に達し、権利・基準と開発・貧困削減を結び付ける包括的な手段を提供しました。

 WTOから投げられたボールを受け止め、社会サミットで達成された中核的労働基準に関する国際的な合意を利用して、ILOは1998年の第86回総会でILO加盟国がその加盟の事実によって尊重すべき権利と原則を定め、保護主義的な貿易上の目的のために労働基準を用いないことを明言する「労働における基本的原則及び権利に関する宣言」を採択しました。これは、世界経済に普遍的な社会的最低線を構築する第一歩となりました。

 1990年当時はGATTに届け出られていた発効中の貿易協定の中で労働規定を含むものはありませんでしたが、上記のような世界的な動きを背景としてその後急激に増加し、2013年6月時点ではWTOに届け出られていた発効中の貿易協定248本中約4分の1に当たる58本に労働規定が含まれるといった状況になっています。日本も参加している環太平洋パートナーシップ(TPP)協定にも、欧州連合(EU)との間で交渉が進められている経済連携協定(EPA)にも労働規定が含まれています。

 ILOは誰も置き去りにしない包摂的な社会を導くグローバル化を達成する上での労働基準の役割について調査研究を進めています。この一環として実施した、グローバル化の統治(ガバナンス)を改善するイニシアチブについて検討する「グローバル化の社会的側面に関する研究プロジェクト」の成果物の一つとして、2013年11月に労働規定を伴う貿易協定について分析した報告書『Social dimensions of free trade agreements(自由貿易協定の社会的側面)』を発表しました。このトピック解説では同書の内容を中心にまとめています。

II.貿易自由化が労働市場に与える影響

 労働規定を貿易協定に含むことを支持する論拠は複数存在します。社会的な観点からは社会的保護を確保するため、経済的な観点からは不公正競争に対抗する手段として、そして人権の観点からは国際社会で受け入れられている普遍的な価値を反映する、労働者にかかわる人権の尊重を確保する手段として、労働規定を用いることができると考えられています。必要な保護措置を伴わない貿易自由化が労働基準引き下げ競争につながるかもしれないという懸念も見られます。また、協力活動や対話を通じて、このような規定は関係国の労働基準を改善する触媒として用い得るとの考えも見られます。

 貿易自由化が労働市場に与える影響に焦点を当てた研究は多数存在しますが、確定的な結論が導かれるには至っていません。市場開放は生活快適度の上昇と労働市場の改善をもたらすと期待されているものの、必ずしもその利益が保障されるわけではありません。この一つの理由として、二国間協定や地域協定が貿易転換を引き起こす可能性を挙げることができます。これによる効率性の損失は生産性水準の低下、そして失業率の上昇、賃金の低下、インフォーマル就業者の増大を招く可能性を高める場合があります。

 貿易自由化が雇用に与える影響を調べた文献は様々な結果を示しています。例えば、1970年代におけるチリの貿易改革の分析は総失業者数と貿易自由化の間に弱いつながりを見出しています。1979年から1986年にかけてのウルグアイの39の産業部門の雇用に対する貿易自由化の影響を評価した研究は、自由化によって製造業で失業が増えていることを示しています。1985~87年のメキシコの貿易自由化が工業部門の雇用に与えた影響を分析した研究もまた、貿易自由化が企業レベルにおける雇用者数の微減と関連していることを見出しています。反対に中東・北アフリカを中心とした59の途上国の製造業における雇用と貿易の中期的な関係を検討した研究は市場開放の度合いと雇用の間に正の相関関係が存在することを発見しています。より最近の、1980、90年代のコロンビア都市部におけるグローバル化と貧困の関係についての研究は、貿易自由化と失業の間には何ら相関関係が存在しないとの結論に達しています。

 貿易自由化が賃金に与える影響を調べた研究もまた膨大に存在します。こちらも結果は様々ですが、ほとんどが輸出向け企業における賃金上昇と技能別賃金分散度の拡大を示しています。インフォーマル経済に与える影響については、最近多くの証拠が得られるようになってきていますが、ほとんどが貿易自由化によるインフォーマル経済の増大を示しています。貿易自由化またはグローバル化と組合の関係を分析した研究も多数存在しますが、この大部分が組合の組織率と従業員の交渉力に否定的な影響があることを見出しています。

 現在の世界経済の特徴の一つとして、生産の国際分業の増加が挙げられます。グローバルなサプライチェーン(供給網)またはバリューチェーン(価値連鎖)は、グローバル企業がより費用効果の高い生産体系の組織化と、さらなる貿易自由化、新情報通信技術、より効果的な輸送モデルなどを基礎としたグローバル化の深化を活用することによって製品及びサービスの市場を拡大していく方法ですが、これは世界中で労働市場構造に大きな影響を与え、国際的な労働分業と国家間の貿易の流れに相当の変化をもたらしています。グローバル・サプライチェーンは途上国の多くが世界経済とつながる主な手段となり、相当規模の企業・雇用の創出・成長をもたらし、様々な経済発展段階における知識と生産技術の普及に寄与していますが、世界中の雇用や収入の質と量、分布に与えるその影響は幅広い論議を招いてもいます。また、2013年4月にバングラデシュで発生した、複数の国際下請企業が入るラナプラザビルの倒壊が多数の労働者の命を奪ったことなど、最近の複数の出来事が国際労働基準の適用とディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)の実現に係わる問題に対処しつつ、成長と生産的な雇用を創出する潜在力をいかに最大化すべきかという問題をより良く理解する必要性に光を当てることにもなりました。多くのグローバル企業が国際的な圧力と期待に応える形で、行動規範や民間監査の仕組みを導入しています。また、今世紀初めから、国際産業別労働組合組織(GUFs)が多国籍企業と国際枠組み協約(IUFs)を締結してグローバル・サプライチェーンを通じて労使関係を規制すると共に中核的な労働基準の遵守を促進する試みが増加しています。

III.貿易協定の労働規定

 貿易取り決めと労働基準を結びつけようとの試みはしばらく前から見られますが、最初は囚人労働及び強制労働に焦点が当てられていました。1890年の米国を皮切りに、国内製造業者の収益性を脅かすダンピング効果を懸念した複数の英語圏の国々が囚人労働を用いて作られた製品の輸入を禁止する法を成立させました。1930年にILOで強制労働条約(第29号)が採択されると、米国は法の対象を強制労働まで拡大し、その後、1984年に特定の途上地域との片務的な貿易協定に労働基準に違反した場合に特恵措置を撤回するという、より包括的な取り決めを導入しました。1995年にはEUでも同じような撤回と追加的特恵付与の奨励措置を組み合わせた仕組みが導入され、労働基準と特恵措置の結合が達成されました。

 労働者の権利と公正労働基準を認めた1947年のハバナ憲章の場合のように、このような規定を多国間貿易の枠組みに盛り込もうとの初期の試みは失敗し、より包括的な労働規定をWTOの枠組みに含むべきか否かを巡る激しい議論は、1996年に開かれたWTOのシンガポール閣僚会合で国際的な労働紛争を解決する権限のある機関はILOであるとの結論が導かれて決着しました。これを受けて1998年の第86回ILO総会で「労働における基本的原則及び権利に関する宣言」が採択されたことは、この分野における行き詰まりを打開する重要な一歩となりました。

 労働規定とは、1)最低限の労働条件、雇用条件または労働者の権利を定める何らかの労働基準、2)国内労働法またはその執行によって労働者に提供される保護に関する何らかの規範、3)これらの事項に係わる協力及びモニタリングまたはそのいずれかのための何らかの枠組み、のいずれかと定義できます。このような労働規定を含む貿易協定は1995年には4本しか見られなかったのに対し、2005年には21本、2013年には58本と、この20年間で急増しています。このような協定は先進国と途上国の間で締結される傾向がありますが、途上国と新興経済諸国間の南南貿易協定にも見られるようになってきています。現在交渉が進められているTPPで取り扱われている分野にも労働が含まれています。

 この20年間の国際経済グローバル化の加速化は外国直接投資と労働事項の関係に関する関心の高まりを招いています。二国間・多国間投資協定に含まれる規定は多岐にわたるものの、ベルギー、米国、オーストリアなど、複数の国の二国間投資協定モデルに、投資の奨励、誘致、引き留めのために結社の自由や団結権・団体交渉権などの労働分野の基準を引き下げることを禁止する条項が見られます。

 労働規定は労働基準の遵守が経済的な結果を招く条件規定の場合と、そのような結果を招かずに対話、協力、モニタリングの枠組みを提供する促進規定の場合のいずれかに分類できます。全体の4割程度を占める前者は米国及びカナダの貿易協定に典型的に見られ、後者は主にEUやニュージーランドの協定、南南貿易協定に見られます。

 労働規定を含む貿易協定の増加傾向は、協定の批准手続きや締約国間の協力活動、そしてそれほど活用されているわけではありませんが、苦情申立ての仕組みを通じて労働基準に影響を与えています。例えば、協定の批准に先立ち労働基準改善などの条件が付される米国との協定締結は、国内労働法制や実務面での相当の改革に寄与しています。オマーンではこのような改革によって一定の条件の下で労働者に労働組合結成・加入の権利が与えられ、バーレーンやモロッコでは反組合的差別からの保護が強められました。労働監督官の権限が拡大され、不正な臨時契約や業務外注の使用に対する制裁権限が付与され、ストライキの法定要件が緩和されたペルーや、結社の自由の改善、短期契約に対する法的保護の向上をもたらす複数の法改正が行われたパナマなど労働法改革の円滑化や執行枠組みの強化に寄与したケースもあります。

 労働規定を含む貿易協定の締結はしばしば締約国間の幅広い協力活動につながりますが、例えば、複数国による共同監督活動誕生のきっかけとなった南米南部共同市場(メルコスール)の地域労働監督計画や、労働安全衛生の分野で複数の政策・対話活動が展開されているアンデス共同体の枠組み、労働分野の包括的な協力課題が確立された西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)や南部アフリカ開発共同体(SADC)などのように幾つかの地域統合協定の下で特に包括的な協力活動が生まれています。ニュージーランドの貿易協定も複数の協力活動を誕生させており、例えば、チリ、シンガポール、ブルネイとの協定によって労働関連の政策対話が確立され、タイとの協定によって労働監督などの実務的な協力プロジェクトが開始されています。米国とカナダの締結する貿易協定もその多くが労働基準分野の協力を増大させており、国内の労働関連機関の執行力の強化と労働者の権利に関する啓発活動に係わる多様な開発協力プロジェクトの誕生につながったドミニカ共和国/中米自由貿易協定(CAFTA-DR)のように最近は制度機構の能力構築活動に重点が置かれています。EU/ACP(アフリカ、カリブ、太平洋諸国群)技術協力プロジェクトのようにEUの締結する貿易協定の下でも促進活動が行われています。幾つかのEUの協定はまた、労働基準に関する包括的な情報交換・経験交流をもたらしています。EUの最近の協定では、労働規定の実行を監視する協議機関に労働組合と使用者団体も含まれるようになっています。

 苦情申立ての仕組みはほとんど発動されておらず、利用が判明しているのは米国が関連した4件だけです。今のところ、申立ては紛争解決機関による決定や制裁につながっていませんが、それでも当事国の労働基準にある程度の影響が認められています。

 労働規定が条件として作用する場合、その影響力は主に当事国の政治的な意思に左右されますが、市民社会、とりわけ労働者団体による付随的な広報提言活動が様々な側面における機能の発動に一定の有用な役割を果たすことが証明されています。

 ますます多くの国が多様な労働規定を含む貿易協定に参加するようになってきているため、労働基準の促進に関して十分な補完性が確保されることが大切です。労働規定のモニタリングに必ずしも社会的パートナーが関与しているわけではないことが実施に影響する可能性もあります。

3.1.条件的労働規定

 貿易協定に含まれる労働規定の約4割は、その遵守が経済制裁または経済便益という経済的な結果を招くものとなっています。このような条件的労働規定には二つの種類があります。一つは、特定の労働基準の尊重を貿易協定締結の条件とするもので、もう一つは、苦情申立てと紛争解決の仕組みを協定に盛り込んで国内労働法の適用を締結後に確保しようと図るもので、違反の場合には交易利益の撤回や金銭的制裁を惹起する可能性があります。

 前者は主として米国の貿易協定の特徴であり、これまでのところ、協定締結に先立ち労働基準の改善を公式に求めているのは同国だけです。これはしばしば労働法制の大幅な変更をもたらし、結社の自由に係わる分野を中心に労働者の権利の改善や新たな法的保護の導入につながっています。例えば、2009年に米国と貿易協定を結んだオマーンでは2006年に労働組合の結成及び労働組合に加入する権利を労働者に認める法が成立しています。

 後者は新しい法の成立というよりは既にある法律規定の遵守に関して一定の役割を演じる傾向があります。このような協定は比較的新しいこともあり、苦情申立てと紛争解決における経験は限られていますが、現在見られる47件の苦情申立ての大部分に当たる41件が北米自由貿易協定(NAFTA)に付属する北米労働協力協定(NAALC)の下で行われています。このほとんどがメキシコの労働法に関するもので、結社の自由に関する問題が主で、次いで労働安全衛生と最低限の労働条件に関するものとなっています。この半数が1994年のNAFTA発効から5年以内に提起された申立てであり、1998年の10件をピークに件数は減少しています。2013年6月当時で申立てを分析する専門家評価委員会の設置にまで至った案件はありませんでしたが、この一つの説明として、当事国が友好的な解決を指向しており、審査に先立つ当事国間の協議段階での解決に努めていることが挙げられます。とりわけ初期の申立ては問題となっている事項に好影響を与えたことが示されています。しかし、労働基準にはプラスの影響があったとしても、例えば、労働組合の登録申請が受理されなかったことが問題視されたメキシコの案件では公聴会に先立って労働局が決定を覆して申請は受理されたものの、当局が当該組合の権利の行使も反組合的理由から解雇された労働者の復職も執行しなかったこともあって最終的に組合は解体したというように問題点は必ずしも解決されておらず、この一因はモニタリングの機能が弱いことにあると言うことができます。にもかかわらず、申立てがきっかけとなって国を越えた労働者団体の同盟が生まれたり、労働基準に関する意識が高まったというように幅広い影響も見られます。

 NAALC以外の申立ては、いずれも労働組合の権利に関するものであり、コスタリカ、ペルー、バーレーン、ドミニカ共和国、グアテマラ、ホンジュラスが関係しています。2013年6月当時でこのうち4件はまだ未解決でしたが、国内機関が幾つかの労働基準問題に取り組むきっかけを作るなどの効果が既に見られました。

 日本がフィリピンと締結している貿易協定などの少数の例外を除き、条件的規定を含む貿易協定は典型的に、制裁を基本とした執行の仕組みに加えて協力活動も含んでおり、国の能力向上を図っています。どちらの形態のものについても、労働規定が効果を発揮するか否かは当事国の政治的意思にかかっていますが、市民社会、とりわけ労働者団体も労働規定に含まれる様々な条件を発動させる上で一役買っています。

 2015年10月に大筋合意が達成されたTPP協定の労働規定も結社の自由などの就労に係わる権利に関する法規及び実務の制定・採用・維持を求めると共に一般の人々による問題提起の手続きや協力活動に関する規定を含んでいます。2015年3月に出されたILO使用者活動局の研究メモは、TPPや日本との間でも交渉が進められているEUの自由貿易協定などアジア太平洋諸国がかかわる貿易協定の労働・社会政策要素を分析し、紛争解決の手続きが発動される可能性は低いとしつつも労働法や実務にギャップが認められる場合には、それに取り組む用意が政府には必要と結論づけています。

3.2.促進的労働規定

 南北間のものを中心に貿易協定に見られるほとんどすべての労働規定に何らかの促進的側面があります。北米の協定は条件的なものと組み合わせて促進的な規定が用いられる傾向があるのに対し、EU、ニュージーランド、チリなどが締結する全体の6割程度は促進的な手法に特化しています。最近増えてきている途上国間の貿易協定、とりわけ地域統合協定に含まれる労働規定はそのすべてが促進的な性格のものになっています。

 促進規定の実施は一般に当事国間の協力活動の形を取ります。先進国・途上国間の貿易協定では技術協力活動や制度的な能力構築が優先される傾向があるのに対し、途上国間の協定に基づく活動は主として対話と政策策定で構成され、時には社会的パートナーの積極的な関与やILOの技術支援を伴っています。

 促進措置のモニタリングの仕組みは、制裁を伴わない監督形式を取ることができます。これには、CAFTA-DRやメルコスールの協定の場合のように貿易協定自体によって設けられるか外部機関である中央機関によって行われる場合と、最近のEUの協定に見られるような、時には労使団体を含む市民社会の代表も関与する二国間の委員会や協議を通じて行われる場合とがあります。

 促進規定は条件規定よりも発動されやすいものの、これが労働者の権利に実際に与える影響を評価するのは困難であり、さらなる調査研究が必要です。得られる限られた証拠から効果の程度は当事国の政治的な背景と様々な活動についての包括的な枠組みの有無にかかっているように見えます。

IV.労働関連規定の効果を高めるためには

 様々な調査研究が現在存在する労働規定の効果を高める可能性がある選択肢を提案していますが、これは大きく三つに分類できます。一つは、労働規定は労働者の権利が尊重されていないケースを取り上げるだけでなく労働基準の漸進的な改善を目指すことを確保すべきという議論です。例えば、適当な場合には経済的インセンティブと結び付けた労働分野に関連した開発目的を追加して、マイナス条件ではなく、プラス条件を付すことなどが考えられます。二つ目の提案は規定の交渉と実施において社会的パートナーや市民社会との協議をもっと増やすことです。例えば、協力活動の設計に社会的パートナーや市民社会の専門知識を活用することや実施のモニタリングに社会的パートナーから投入される情報をもっと用いることなどが考えられます。3番目はほとんどの労働規定が「労働における基本的原則及び権利に関する宣言」を中心にILOの文書に言及しているため、適用上の手引きや実施にかかわる情報の提供など、規定の適用にもっとILOを関与させることです。

V.貿易協定とILO

 貿易協定に含まれる労働規定の3分の2にILOの文書が盛り込まれています。この大半が1998年に採択された「労働における基本的原則及び権利に関する宣言」に言及しています。これは、以下の四つの労働における基本的な原則と権利に関し、ILOの加盟国は、その加盟の事実により、関連する条約を未批准の場合でも、それを尊重、促進、実現する義務を負うことを宣言すると共に、労働基準は保護主義的貿易目的で利用されるべきでないことを明言するものです。

  1. 結社の自由及び団体交渉権の効果的な承認
  2. あらゆる形態の強制労働の禁止
  3. 児童労働の実効的な廃止
  4. 雇用及び職業における差別の排除

 一方で、この基本的な原則及び権利に関係する条約は八つありますが(結社の自由・団体交渉権に関する第87、98号条約、強制労働禁止に関する第29、105号条約、児童労働廃止に関する第138、182号条約、雇用・職業上の差別排除に関する第100、111号条約)、この基本条約に対する言及は15%しかありません。それ以外の条約に対する言及は5%未満ですが、米国やカナダが締結する貿易協定に見られます。

 一般特恵関税制度の形を取る米国やEUの片務的貿易協定も労働における基本的な原則と権利に言及しています。とりわけILOの基本条約に言及するEUの一般特恵制度では、ILOの監視機構の結論をもとに尊重状況の評価が行われ、例えば、1997年には強制労働の使用を問題としてミャンマー、2006年には結社の自由に関するILO第87号条約の適用上の問題を理由としてベラルーシについて貿易優遇措置の適用を撤回しました。ILOの1998年宣言に含まれる労働4原則に関する国内法制の制定・維持の義務を貿易協定に盛り込むことが貿易政策に定められている米国も国内労働法の適用に加えて、労働における基本的な原則と権利の尊重を当事国に求めています。EUと米国の取り組みの違いは、前者が批准ILO条約などの過去に行われた公約の効果的な実施を求めているのに対し、後者は労働4原則を盛り込んだ国内法の効果的な執行を拘束力のある義務としている点です。TPPでは、労働4原則に加え、最低賃金、労働時間、労働安全衛生に関する許容可能な労働条件に係わる法規・実務の制定・採用・維持が求められています。また、協力分野にはディーセント・ワークの概念や2010年の第99回ILO総会で採択された「グローバル・ジョブズ・パクト(仕事に関する世界協定)」で示された共通の関心分野を通じた経済危機の労働・雇用面における課題への取り組みが含まれています。

 ILOは貿易協定の交渉には参加していませんが、加盟国政労使の要請に応じ、貿易協定と労働基準の関係についてセミナーを開催したり、モニタリングなどの技術協力活動に関与しています。地域統合協定の労働関連活動にも参加し、東アフリカ共同体(EAC)やECOWASなど多くの地域機関と労働分野における協力に関する覚書を締結しています。2015年末で経済共同体が誕生した東南アジア諸国連合(ASEAN)に対しては共通労働政策の策定に向けた支援を提供しました。貿易協定に含まれる労働規定の影響力に関する調査研究を実施し、知識基盤を構築してウェブサイトや刊行物を通じて情報を提供しています。

 国際労働問題研究所(現調査研究局)は2009年に、当時存在していた労働規定に関する包括的なマッピングを行った後、自由貿易協定を基礎とする労働規定の有効性を評価するプロジェクトを実施し、『Social dimensions of free trade agreements』をはじめとする成果物を発表しました。国際労働基準局は自由貿易協定のデータベースを維持しており、日本を含む各国の情報が提供されています。雇用政策局の貿易と雇用ユニットでは、貿易が雇用に与える影響の評価や、雇用・貿易・外国直接投資の政策間の相互作用を分析し、貿易からもたらされる雇用上の利益が高められるよう各国の政策設計を支援しています。2016年の第105回ILO総会では、グローバル・サプライチェーンにおけるディーセント・ワークについて一般討議が行われることになっており、そのための調査研究も進められています。

 例えば、米国とカンボジアの繊維協定ではアパレル企業による労働基準の尊重が特別市場割当数量決定の条件となっており、ILOはそのモニタリング、評価基準の設定、改善のための手引きを提供するベターファクトリーズ・カンボジア(カンボジアのより良い工場)計画を通じて協定の実施に密接に関わりました。ここから発展したベターワーク(より良い仕事)計画は現在、世界8カ国で社会対話を用いてグローバル・サプライチェーンの労働条件と生産性の向上を図っています。

 労働規定の適用に関する紛争の解決にILOが関与する可能性も考えられ、実際、最近の幾つかの協定はILOのそのような役割を明示的に想定しています。米国やカナダ、EUの貿易協定の中には、労働規定の実施においてILOの支援を求める可能性を想定したり、ILOとの協力協定の締結を具体的に許しているものもあります。紛争の協議過程でILOに助言を求めることを当事者に明示的に許している欧州委員会(EC)とカリブ海諸国(CARIFORUM)の貿易協定のように紛争時におけるILOの関与を想定しているものも複数見られます。カナダが締結した協定の中には当事者間で合意が達成されなかった場合にILO事務局長に仲裁人団の委員長の任命を求めることになっているものもあります。そのように明記されていなくても紛争当事者はILOに助言を求めることができますが、今までのところ、直接的な助言や支援の要請は届いていません。

 WTOで労働基準を扱うか否かが大論争になっていた1994年の第81回ILO総会では、基本的な権利に関する活動を強化する可能性のある手続きについて検討する事務局長報告を巡り活発な議論が行われ、社会条項に関する労働者側の姿勢が明確に示されました。この問題をILOで議論することに対する途上国側の反対もあり、理事会は貿易自由化の社会的側面に関する作業部会を設置して1994年11月からこの問題に関する検討を開始しました。この議論は、2004年に出されたグローバル化の社会的側面世界委員会の報告書における論点整理を経て、2008年の第97回総会における「公正なグローバル化のための社会正義に関するILO宣言」の採択に結実するわけですが、この宣言は、その実施手段の一つとして、「ILOにおける諸義務との整合性を前提とし、二国間又は多国間合意の枠組みにより共同して戦略目標を推進させることを望む加盟国に対し、求めに応じ、支援を提供する」ために実務面の見直し・適応を図ることをILOに求めることによって、労働規定の実施に係わる支援の提供をILOに許しています。憲章によって付託された幅広い任務と組み合わせることによって、これはILOがILO諸文書との整合性を高める形で貿易協定の労働規定の実施において加盟国を支援できる確固たる基盤を提供しています。

 2012年の第101回ILO総会で行われた、労働における基本的な原則と権利に関する反復討議の中でも複数の政府が自由貿易協定の促進的な潜在力を強調しています。採択された討議の結論文書の中では、貿易取り決めに関し、1998年の「労働における基本的原則及び権利に関する宣言」及び2008年の「公正なグローバル化のための社会正義に関する宣言」が労働基準を保護貿易目的で用いるべきでないと強調していることを再確認した上で、ILOはこの枠組み内で、分析・調査研究作業を強化し、ILOにおける諸義務との整合性を前提として、二国間または多国間合意の枠組みにより共同して戦略目標を推進させることを望む加盟国に対し、求めに応じ、支援を提供することが奨励されています。


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