第6代ILO事務局長ウィルフレッド・ジェンクス(英国・1970~73年)

ウィルフレッド・ジェンクス第6代ILO事務局長写真

 ジェンクス氏は1931年に法務部の職員としてILOに入り、その後、法務顧問、事務局長補、事務局次長、筆頭事務局次長を歴任した後、1970年6月に事務局長に就任しました。ジェンクス氏は40年間にわたるその在職期間を通じて90カ国以上を訪問し、ILOのあらゆる主要な活動の開発に参加し、政労使三者構成とその伝統の強化に主導的な役割を演じました。

 第二次世界大戦が始まった時、ジェンクス氏は事務局が戦時中も機能し続けるために手配を行う委員会の書記に任命され、したがって、ジョン・ワイナントとエドワード・フィーランという戦中及び戦後直後に事務局を率いた2人の事務局長と密接に協働しました。フィーラン事務局長の下では、後にILO憲章の一部となり、ILOの目的と目標を再言する1944年のフィラデルフィア宣言を起草しました。1945年には国連を創設したサンフランシスコ会議のILO代表団の一員に任命されました。

 事務局長就任前からジェンクス氏は国際労働基準と人権に関するILOの活動の中心的な責任者を長い間務め、これらの基準の遵守を確保する多様な仕組みを工夫する上で中心的な役割を演じました。この仕組みは国際機関の中でも最も進んだものと広く認められています。ジェンクス氏はこれを「大胆な概念と細心の実行の合体」と説明しています。ジェンクス氏はまた、複数の主要な実働計画の立ち上げにおいても決定的に重要な役割を演じ、ILOの最初の技術協力専門家の1人として1938年にベネズエラに派遣されました。ジェンクス氏は、国連機関間の密接な協働関係の構築を助け、中南米・アジア・アフリカにおけるILOの活動を拡大し、自ら選択する団体を設け、そのような団体に加わる労使の権利を守るILOの手続きや産業別活動計画の開発を支援しました。

 ジェンクス事務局長は東西紛争から生じる労働問題政治化の動きに直面しました。事務局長のILOに関する深い知識はこの業務の遂行に大いに役立ち、国際的な問題におけるILOの道徳的権限、政労使三者構成主義、法の統治、人権の堅固たる擁護者であり続けました。

 ジェンクス事務局長は1973年10月にローマで客死しました。