第5代ILO事務局長デイビッド・モース(米国・1948~70年)

デイビッド・モース第5代ILO事務局長写真

 ハーバード法科大学院を卒業したモース氏は1932年に法曹界に入り、合衆国法務長官特別補佐官、米国内務省の石油労働政策委員会主任顧問、ニューヨーク大都市圏全国労働関係委員会地域法務長官などを歴任しました。戦争が勃発すると軍に入り、大尉として北アフリカ、シチリア、イタリアに赴き、連合軍政府労働部の長を務め、英米政府や軍に代わってシチリア及びイタリアで労働政策・労働計画を立案・実行しました。ドイツの労働政策・労働計画の策定にも携わりました。モース氏は除隊後、全国労働関係委員会の法律顧問に任命されました。1946年7月にトルーマン大統領によって労働次官に指名され、労働省の国際事業計画の立ち上げ活動に専念しました。総会代表団に2度加わり、理事会の米国政府理事も務めました。1948年の総会では米国代表団の長を務めました。1948年6月にサンフランシスコで開かれた第105回理事会で全員一致で任期10年の事務局長に選出されました。1957年5月、1962年3月、1967年2月に再び全員一致で各任期5年で再任され、1970年2月に辞任しました。モース事務局長は1990年12月にニューヨークで死去しました。

 22年間と最も長い期間事務局長の席にあったデイビッド・モース氏は後年、「自分の任務は第二次世界大戦中に衰弱してしまった組織を再建することだった。それが生き残ったのは殊勲ものだが、まだ戦後世界にしっかりとした足場を見つけていなかった」と述懐しています。モース事務局長の時代、ILOは絶えず変化にさらされていました。この時代、ILOの加盟国数は52カ国から121カ国に増え、約600人だった職員数は5倍になりました。約400万ドルだった年間予算は6,000万ドルまで膨らみました。ILOの活動にも新たな側面が加わり、技術協力が活動の主要かつ不可欠な一部を構成するようになり、地域・現地事務所網が整備され、事業計画の分権化が進み、教育と訓練が新たに強調されるようになり、1960年にはジュネーブの本部に国際労働問題研究所、1965年にはイタリアのトリノに国際研修センター(通称「トリノセンター」)が設置されました。

 1969年には世界雇用計画が発足しました。モース事務局長は失業と不完全就業を貧困の主な原因、開発の深刻な障害物と見ていたため、この計画に高い優先順位を付しました。途上国では失業者が膨大な割合を占め、国民総生産の増大などの尺度から見て経済開発が成功したと判断される時でさえ、増大する一途の労働力のために生産的な雇用を創出するとという問題は解決されていませんでした。世界雇用計画は人材開発と雇用政策の分野における初の世界的な計画立案の試みを表しました。

 この他に、保護に特化した計画も開始されました。例えば、結社の自由を中心に、人権保護に向けた特別の手続きが設けられました。結社の自由と団体交渉権、同一報酬、強制労働の撲滅、雇用上の差別、先住民・種族民などの分野を扱った主要な基準が採択されました。一方で、アパルトヘイトとの戦いに関する原則及び指針も採択されました。事業計画を元にした予算編成手法が導入され、事務局機構の大幅な再編成が行われ、新たな本部ビルの基礎が敷設されました。

 冷戦と植民地独立プロセスは貧困を主たる懸念事項に抱える多数の新国家の誕生をもたらし、ILOの組織構造は圧迫されました。事業計画を新たなニーズに適応し、基準の普遍性が保たれるよう柔軟性が高められました。ILOの憲章構造を新たな需要に適応させるための対話が開始され、これは最終的に複数の憲章改正につながりました。モース事務局長の指揮の下、ILOはその本質的な業務を続け、より一層力を付けてよみがえりました。これが公式に認められたことによって、創立50周年の1969年にILOはノーベル平和賞を受賞しました。