第4代ILO事務局長エドワード・フィーラン(アイルランド・1941~48年)

エドワード・フィーラン第4代ILO事務局長写真

 リバプール大学を出たフィーラン氏は英国の公務員となり、1916年に新たに設置された労働省の情報部に配属され、1919年のパリ平和会議に提出されたILOの創設に関する英国の提案を主導的な立場でまとめ上げました。パリ平和会議では英国代表団の労働部門書記に任命され、ワシントンで開かれた第1回ILO総会組織委員会の書記補佐を務め、総会では筆頭書記に任命されました。憲章起草に参加したフィーラン氏はILOについて深い知識がありました。

 アルベール・トーマ初代事務局長が就任後最初に行ったことの一つがフィーラン氏に事務局職員のポストを提示することで、フィーラン氏はILOの職員第1号になりました。外交部の初代部長として、トーマ事務局長やバトラー事務局長不在時には事務局の指揮を執り、1933年に事務局長補、1938年に事務局次長に昇進し、1941年にジョン・ワイナント事務局長が辞任すると事務局長代行を務め、1946年に、1941年に遡って効果を持つ形で事務局長に任命されました。

 戦時状況下で通常のILO総会の開催は不可能であったものの、加盟国が早期に会合を持つ必要性を認識したフィーラン事務局長は必要な協議過程を経て、1941年10月にニューヨークでの特別総会開催にこぎ着けました。総会はルーズベルト大統領の招待を受けてホワイトハウスで非公開会合も開きました。総会ではILOを戦後の平和な世界の再建の取り組みに関連づけることの重要性が強調されました。

 戦時中のILOは細々とした予算と少人数の職員であらゆる業務を賄いました。総会が開催されなかったために、基準設定活動は中止せざるを得ませんでしたが、中南米その他の諸国に社会保険に関する技術諮問団が派遣されました。『International labour review』誌その他の様々な特別の刊行物を通じて情報提供活動は続けられました。国際連盟を継承する新たな国際機関に関する計画が既に着々と進められつつあったワシントンやロンドンとは密接な連絡を保ちました。

 第二次世界大戦のただ中の1944年4月にフィラデルフィアで開かれた総会には41カ国から政労使代表団が参加し、社会保障と雇用の分野において新たに発生しつつあった問題と従属領土の社会政策を扱うことを目指す7本の勧告について合意に達しました。より重要なこととして、この総会は次の二つの基本原則を定めるフィラデルフィア宣言を採択しました。

  1. すべての男女が自由及び尊厳並びに経済的保障及び機会均等の条件において、自らの物質的福祉及び精神的発展を追求できる状態の実現を、国家及び国際の政策の中心目的とすべきこと
  2. 国家及び国際のすべての取り組みは、この目的の促進を支援するか否かの見地から判断すべきこと
 宣言には、ILOの元来の使命がより包括的かつ肯定的な言葉で盛り込まれました。ILOは世界の人々に対して、社会政策が支配的な関心事項とされ、人々の福祉が中心的な目標とされることを確保するために国際的な経済及び財政の政策・措置を吟味・検討する特別の責任を付託されました。労働者を危害から保護するという初期の概念は社会保障が基礎所得、包括的な医療、健康と福祉の効果的な促進を提供するという、より肯定的な理想に置き換えられました。失業防止の目標は、完全雇用を育み、したがって生活水準の向上に寄与するとの観点から再言されました。労働条件の問題はもはや、特定の困難の除去に関連して検討されるのではなく、賃金や労働時間などを司るより幅広い文脈で取り上げられました。

 

 1945年6月にサンフランシスコで国連憲章が採択され、新しい形態の戦後国際機関が姿を現しましたが、その仕組みの中にILOの位置は規定されていませんでした。国際連盟とその関連機関をきれいさっぱりなくそうとのプレッシャーの下、サンフランシスコでILOの代表は冷たく迎えられました。ドゴール将軍の招待を受けて、パリでILO総会が開かれ、戦後の時代の要求に対応する憲章改正作業が開始されました。国際連盟との関係にかかわる規定は削除され、国際連合との関係に関する同じような規定が追加されました。1946年の早いうちに、ILOは国連と交渉を始め、結果として国連と専門機関との間で締結された初の協定が達成されました。この協定は大枠において、その後の同種の協定のモデルとなっています。

 フィーラン事務局長のリーダーシップによるもう一つの重要な業績は1948年の総会で結社の自由と団結権に関する第87号条約が採択されたことです。

 フィーラン事務局長は、1967年9月にジュネーブで亡くなりました。