第3代ILO事務局長ジョン・ワイナント(米国・1939~41年)

ジョン・ワイナント第3代ILO事務局長写真

 ジョン・ワイナント氏の社会問題に対する関心はプリンストン大学の学生時代から育まれました。第一次世界大戦前の米国では、産業民主主義を求める戦いは主として政治の場で戦われていたため、ワイナント氏はニューハンプシャー州で政界に入り、州下院議員に選出されましたが、すぐに空軍に入って海外に赴任しました。戦後、ニューハンプシャー州に戻り、州上院・下院議員を経て、1924年には州知事に選出されました。ワイナント知事は、進歩的な社会立法体系を州内に構築し、その後、大恐慌の開始に伴う全国的な性格の社会問題の激化を受け、関心対象を国家の問題にまで広げるようになりました。米国がILOに加盟した1934年、氏は多数の労働者の生活を窮状に陥れていた悲惨なストライキに対する公正な解決策を見出すために米国大統領が設置した全国繊維調査委員会の委員長に任命されました。

 ワイナント氏は1935年4月にILOの事務局長補になったものの、同年10月に新設された社会保障委員会の委員長に就任するようルーズベルト大統領に呼び戻されました。1936年に事務局長補に戻ると世界規模の社会保障事業計画の開発に特別の関心をもって取り組みました。1939年にバトラー事務局長の後を継いだワイナント事務局長は後年、平和は世界の人々にとっての最優先事項であり、社会正義に根ざさない限り、平和はもちこたえないとの考えをもって事務局長職を引き受けたと述懐しています。

 1940年にナチスの軍隊がヨーロッパを席巻し、イタリアも戦争に踏み切ったため、ILOは実効的にその主要な民主主義の支援源から孤立することになってしまいました。事務局の中心拠点をジュネーブから移転させる必要が生じ、ワイナント事務局長はカナダのモントリオールに新たな活動拠点を設けるよう手配しました。1941年に駐ロンドン米国大使の任命を受けてILOを辞任したワイナント事務局長ですが、4年間にわたる大使時代もILOへの関心を失うことなく、戦時中もILOの活動に密接にかかわり、様々な手段を通じて基準と社会政策の適用拡大を図りました。ルーズベルト大統領の死後、国連経済社会理事会の米国代表に任命され、1946年に職を辞してからは大使館時代の経験をもとにした書籍の執筆に務め、1947年11月に大使時代の経験を綴った2冊目の本を上梓した後に亡くなりました。