第2代ILO事務局長ハロルド・バトラー(英国・1932~38年)

ハロルド・バトラー第2代ILO事務局長写真

 パリ平和会議における国際労働立法委員会の設置に至った憲章前文第一次草案の起草に携わるなど、ILOの創設に至った準備作業に積極的に参加したハロルド・バトラー氏は、第1回ILO総会で書記局長を務めました。後にILO事務局次長となり、トーマ事務局長の片腕として、その逝去に伴って1932年に事務局長に任命されました。

 バトラー氏は第1回総会で書記局長としてのリーダーシップを発揮し、憲章に含まれる原則を初めて実践に移すと共に初めて経験する無数の手続き上の技術的な問題を解決に導きました。1920年1月にパリで開かれた第2回理事会で事務局長に任命されたトーマ事務局長が最初に行ったのはバトラー氏を次長に任命することでした。バトラー次長は内部組織、管理、財務を担当し、人事・採用問題に特に関心を示し、真に国際的な職員を育成する重要性を常に強調しました。バトラー次長は国際性あふれる職員から忠実な協力姿勢と高い業務遂行水準を得ることは可能であるとの確信の下、言語や仕組み、業務遂行方法、果てには考え方の違いによる膨大な困難にもかかわらず、新たに採用された職員ができるだけ速やかに、統一的かつ均質的で忠実な国際公務員に変身することを確保するのに努力を惜しみませんでした。

 急死したトーマ事務局長の後を継いで1932年にバトラー事務局長が誕生した時、前途が困難なことは明白でした。経済面では、世界には大恐慌の暗雲がたれ込め、各国政府は自国の国際収支を守るために貿易と外国為替に制限をかけていました。失業者数は着実に膨らんでいき、財政、経済、社会の安全保障は徐々に損なわれていきました。政治的な展開もよくなく、軍縮会議は合意に達することができず、満州における出来事は国際連盟の権限を踏みにじっても何の罰も受けないことを示していました。多くの国で激しい政治不安が今にも内戦化しそうな様相を呈していました。バトラー事務局長は新たな世界大戦の勃発に備えてILOの組織補強に向けた措置を講じました。事務局長の考える最大唯一の補強策であった米国のILO加盟は1934年に実現しました。

 バトラー事務局長はまた、ILOの活動が欧州以外の国々にとって身近なものとなり、これらの国がILOの活動により効果的に参加できるよう力を尽くしました。1934年の総会でようやく、政府側理事16カ国中7カ国が欧州外諸国となり、これに対応して労使理事にも欧州外諸国出身者が増加しました。事務局長はまた、欧州外諸国の状況とニーズの理解を向上し、支援を提供するために、欧州外諸国と事務局との直接的な関係の強化に向けた措置を講じました。中南米、アジア、中東に職員が派遣され、事務局内には海外課が新設されて欧州外諸国の特別の問題にもっと注目を払う体制が整いました。1936年1月には初の地域総会がチリの首都サンティアゴで開かれました。

 バトラー事務局長はその在任中、個別国の労働・産業問題の点検に尽力し、1937年にはワシントンで初の繊維産業三者構成技術会議が開催されました。その後、炭鉱、化学、その他の産業についても労働時間に関する政労使三者構成の技術会議が開かれ、戦後設置された産業別労働委員会のモデルになりました。

 バトラー事務局長は1938年にオックスフォード大学に新設されたナッフィールド学寮の寮長となるためにILOを辞任し、その後、イングランドの戦時地方行政官、情報業務を担当する駐ワシントン英国公使、欧州経済協力連盟会長などを歴任しましたが、その間、ILOに対する関心をなくすことはありませんでした。亡くなる1年前の1950年には結社の自由に関する実情調査調停委員会の委員に任命され、ILOとの公式の関係が復活しました。