初代ILO事務局長アルベール・トーマ(フランス・1919~32年)

アルベール・トーマ第1代ILO事務局長写真

 ジャーナリストでもあり、故郷のシャンピニ=シュル=マルヌ市の市会議員・市長、セーヌ県選出下院議員、武器・軍需国務次官を経て軍需大臣を務め、第1回ILO総会が1919年11月にワシントンで開かれていたちょうどその時にタルヌ県の代議士に選出されたばかりであったアルベール・トーマ氏は、同年11月に開かれた第1回理事会で初代事務局長に選出されました。選出されたその時から、トーマ事務局長はすべてを捧げてILOの活動に打ち込みました。

 トーマ事務局長は設立の最初からILOをフル稼働させ、数年も経たないうちに、ロンドンの個人宅に置かれた少人数の職員からなる事務局をジュネーブに独立した建物を有する職員数400人の国際的な組織に育て上げました。最初の2年間で16本の条約と18本の勧告が採択され、1920年以降は官報(Official bulletin)や今も続く『International labour review(国際労働評論)』誌などといった刊行物を次々と打ち出す野心的な出版計画に乗り出しました。トーマ事務局長は多国籍の事務局員チームの採用に特にこだわり、そのリーダーシップは無尽蔵の熱意と爆発的なエネルギーを備えた機関というILOのイメージの確立に寄与しました。

 しかし、この熱意は間もなく膨らみゆく抵抗にぶつかり、戦争直後の楽観主義はやがて、疑惑と悲観論に道を譲ることになり、一部の加盟国によるILOの権限と活動の制約に向けた試みが開始されました。第1に、総会による条約・勧告の量産は行き過ぎであり、ペースも早過ぎ、政府や議会がついていけないと考えられるようになりました。批准数ががっかりさせられる程度であることに鑑み、事務局長は条約・勧告の過剰生産を中止すべきとの結論に至りました。第2に、事務局の出版事業が批判にさらされ、調査研究の客観性と中立性に対する疑念の声が上がるようになりました。同時に、ILOの機能を制限しようとの試みも見られました。1921年にフランス政府は、ILOには農業問題を扱う権限がないとの立場を取り、常設国際司法裁判所に勧告的意見が求められるに至りました。裁判所は憲章の制限的な解釈を否定し、ILOの権限は実際、農業部門で雇われている人々の労働条件の国際的な規制にも及ぶと認定しました。1922、26年にも裁判所を用いてILOの活動範囲を制限しようとの試みが見られましたが、いずれも失敗しました。

 もう一つの深刻な困難は財政問題でした。ILOは憲章上、同時に設立された国際連盟に財政的には従属していましたが、一般的なあらゆる政策事項について憲章はILOの絶対的な独立性を規定していました。1923年に理事会で政府グループがILOの予算を140万ドル近くまで引き下げる工作を行い、その後、これがILOの標準的な予算水準となりました。

 予算の制約は活動の抑制と事業計画の統合を要請することになりましたが、これは翻って、肯定的な波及効果を生み出しました。1922~31年の間に、総会は毎年開かれたものの、採択された条約は15本、勧告は21本に過ぎず、基準設定活動の制限は各国政府が適切な注意を払って条約の規定を国内法規に適用することを可能にしました。条約の批准数は増え、ILOの基準は生活・労働条件の改善に効果的な影響を及ぼし始めました。1926年に導入された重要なイノベーションとして、総会は、今日まで続く基準適用監視の仕組みとして、政府報告を検討し、独自の報告を毎年総会に提出する、独立した法律家で構成される専門家委員会を設立しました。

 ILOの基本的な事業計画の成長は抑えられましたが、活動の停滞を意味することにはならず、事務局長は職員にあらゆる機会を活用してILOの目的を促進するよう鼓舞し続けました。存在の重要性を強く信奉する方針のトーマ事務局長は、多くの時間を費やして世界各地に足を運び、ILOの目的と機能に対する支援を求めました。すべての欧州諸国に加え、北・南米諸国、中国、そして1928年には日本も訪れ、各国に多大な影響を与えました。1932年、13年間にわたってILOの存在を強く世界に印象づけた後、トーマ事務局長は54歳で急死しました。