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ILOと日本小史 ILO駐日事務所とは
ILO技術協力と日本 日本が批准した条約



略史−ILOと日本



ILO
事務局長
ILO
駐日事務所代表
(元東京支局長)
出  来  事
    ILO東京支局の開設と閉鎖(1919〜39年)
 1919年、第1次世界大戦の戦後処理をするためにパリ、後にベルサイユで平和会議が開かれ、日本も戦勝国の一員として参加しました。平和会議は、ベルサイユ平和条約の採択をもって国際連盟のもとにILOを創設することを決定しました。1919年10〜11月にワシントンで開かれた第1回ILO総会に、日本は総勢60名近い大代表団を送り込みました。
アルベール・
トーマ
(1920〜32年)
 1920年11月には、ILOとの連絡を行う日本政府代表事務所がジュネーブに開設されました。
 1922年の第4回総会で、日本は8大産業国の一員として正式に常任理事国となりました。この年、日本は初めてILOの条約を批准しました(失業に関する第2号条約と海員紹介に関する第9号条約)。
浅利順四郎
(1923〜35年)
 1923年4月に開かれた第18回ILO理事会で、東京に支局を開設することが決まりました。この決定に基づき、1923年11月に東京支局が開設され、農商務省よりILO本部に職員として派遣されていた浅利順四郎氏が初代支局長に就任しました。 東京支局は翌年1月、大森の望翠楼ホテルで業務を開始しました。支局は各種出版物の発行等を通じ、日本におけるILO活動の周知啓蒙に努力しました。総会における日本の労働者代表は当初、政府が選定していたため、総会でたびたび問題になっていましたが、1924年の総会で初めて正規の手続きを踏んだ労働者代表として鈴木文治総同盟会長が出席しました。この年、日本の海員組合と海員協会が日本政府を相手取り、憲章に基づく批准条約遵守に関する初めての申立(海員紹介の第9号条約に関連して)をILOに提起しましたが、理事会は日本政府の弁明を満足とする結論を採択しました。
 1928年11月にはトーマILO事務局長が来日し、各界に多大な影響を与えました。
ハロルド・
バトラー
(1932〜38年)
 1930年代の日本は国際的な孤立化を進め、1933年には国際連盟を脱退しました。
 国際社会では日本経済発展の背景としてソーシャル・ダンピングの存在が指摘されていましたが、1934年、モーレットILO事務局次長が来日調査し、日本に好意的な報告書がまとめられました。
鮎沢巌
(1935〜39年)
 1935年7月、浅利順四郎支局長が逝去し、後任にILO本部職員であった鮎沢巌氏が就任しました。
 1938年11月、日本はついにILOにも脱退を通告しました(2年後に発効)。
ジョン・ワイナント
(1939〜41年)
    日本のILO脱退を受けて、1939年5月には東京支局も閉鎖されました。
  
エドワード・
フィーラン
(1941〜48年)
  戦後日本のILO加盟促進−日本駐在員事務所の時代(1947〜54年)
 戦後、ILOでは1946年の繊維労働委員会や1947年のアジア地域会議で日本に関する決議が採択され、日本のILO再加盟を求める動きが活発化してきました。
 1947年12月、再加盟促進のため、ILO本部の職員であった荻島亨氏がジュネーブより帰国しました。
 1948年3月、同氏を中心にILO委員会が設置され、ILO精神の普及と再加盟促進の活動が開始されました。
デイビッド・
モース
(1948〜70年)
荻島亨(駐在員)
(1949〜55年)
 1949年7月、ILO日本駐在員に任命された荻島氏は8月に労働省の一室に事務所を開設しました。駐在員事務所は、各種出版物を刊行し、広報活動を活発に行う一方で、技術援助活動として日本人専門家の募集や研修生(フェロー)の受入業務も開始しました。1949年11月には荻島氏を事務局長とし、駐在員事務所と一体的に業務を行う三者構成の民間団体の日本ILO協会が設立されました。
 1951年の第34回ILO総会で日本の再加盟が承認されました。再加盟は国会の承認を得て同年11月に発効しました。 
 1953年9月には日本で開かれる初のILOの会議として第3回アジア地域会議が東京で開催されました。
 1954年に日本は再び常任理事国に復帰し、同年の総会では駐在員事務所を支局に昇格する決定が下されました。
桜井安右衛門
(1955〜67年)
東京支局の再開と啓発推進の時代(1955〜76年)
 1955年10月にILO東京支局が再設され、ジュネーブの帝国事務所勤務経験もある桜井安右衛門氏が戦後初の支局長に就任しました。東京支局はILOの活動や海外の労働事情を国内に伝えることに力を注ぎました。60年代には研修生の受け入れを行う一方で、日本からも労働省職員を中心に欧米諸国に研修生が派遣されました。
 1958年4月に総評が行った結社の自由侵害の申立を皮切りに、官公労組からILOへの申立が相次ぎました。これを契機に、結社の自由と団結権に関する第87号条約の批准問題が注目を浴びるようになり、ILOの結社の自由に関する実情調査調停委員会が初めて発動することとなりました。
 1965年1月に来日した同委員会(ドライヤー委員長)の報告を受け、同年6月、国内関係法を改正した日本は第87号条約を批准しました。この年は、第2回アジア地域海事会議、アジア地域社会保障セミナー、アジア地域職業訓練セミナー等複数のILO会議が日本で開催されました。
 1966年6月には青木盛夫政府側理事が理事会議長に選出され、1年間その任を務めました。
飼手眞吾
(1968〜72年)
 1968年1月、桜井氏に代わり、総会に日本政府代表として出席したこともある飼手眞吾氏が支局長に就任しました。同年9月、再び日本で開かれたアジア地域会議にはモースILO事務局長も出席しました。
 1969年にはILO創立50周年を記念して国内でも各種記念行事が行われました。記念大会、記念講演会の開催、記念切手の発行等に加え、「ILOと一緒に生まれました」コンテスト入賞者がILO本部で開かれた祝賀行事に出席しました。
ウィルフレッド・
ジェンクス
(1970〜73年)
 1970年5月には、労働省の安全衛生局長であった大野雄二郎氏が日本人初の事務局長補に就任しました。アジア太平洋地域担当の事務局長補(現在は地域総局長と呼称)には、現在でも日本人が就任しています。
 1971年9〜10月には外務省賓客としてジェンクスILO事務局長が来日しました。
海老塚政治
(1973〜77年)
 1973年1月、飼手氏に代わり、海老塚政治氏が東京支局長に就任しました。
フランシス・
ブランシャール
(1974〜89年)
 1974年11月には技術協力活動の一環としてバングラデシュの船員訓練用にILOは日本船を購入しました。同じ11月に、日本のILOに対する任意拠出(ILO/日本マルチ・バイ技術協力)による初めての事業としてアジア地域婦人労働行政セミナーが東京で開催されました。日本のマルチ・バイ協力は年々拡大を遂げ、今日では年間3億円近くに達しています。
 1975年の第60回総会で行われたILO理事選挙の結果、使用者側理事に吉村一雄日経連常任理事、労働者側理事に原口幸隆総評顧問が選出され、常任理事国であった政府理事に加え、政労使の三日本人理事が誕生しました。この状態は現在まで続いています。
ILO財政危機の時代(1977〜80年)
工藤誠爾
(1978〜79年)
 1978年1月には海老塚氏に代わり、ILO総会に日本政府代表として出席したこともある工藤誠爾氏が東京支局長に就任しました。1977年11月のアメリカの脱退に伴うILOの危機打開のため、1978年3月にはジェーンILO事務局次長が来日し、日本の協力を要請しました。これを受け、日本政府は4月に100万ドルの任意拠出を決定しました。
 1979年12月には日本政府公賓としてブランシャール事務局長が来日しました。
久野木行美
(1980〜85年)
 1980年1月には工藤氏に代わり、ILO政府側理事を務めたこともある久野木行美氏が東京支局長に就任しました。同年2月にはアメリカがILOに復帰し、6月の第66回ILO総会では、初めて日本語の同時通訳が実施されました。1979年11月にはアジア地域の職業訓練用情報ネットワークを中心としたセミナー形式の技術協力として、日本、ILOが資金を拠出するアジア地域技能開発計画(後に対象地域に太平洋が加わってAPSDEPと略称)が設置されましたが、1980年10月にこの初めてのセミナーが日本で開催されました。APSDEPのセミナーは、海外職業訓練協会の協力を得て今日まで年に数回千葉で開催されています。
技術協力推進の時代(1981年〜99年)
 1982年の第68回総会では、田中良一同盟書記長が副議長を務めました。
 1983年1月には東京で開かれた第9回アジア太平洋労働大臣会議出席のため、ブランシャールILO事務局長が来日しました。
岩田照良
(1985〜90年)
 1985年8月、久野木氏に代わり、ILO理事や総会日本政府代表を務めた岩田照良氏が東京支局長に就任しました。
 ILOは日本政府の協力を得て、1986年末から1987年初めにかけて、ILOの技術協力における日本の役割に関する調査団を2回、アジア諸国に派遣しました。
 1988年3月には日本政府の特別拠出による初のILO海外セミナーとして、労使協調と生産性に関するセミナーがバンコクで開催されました。同年6月の第75回総会では、辻野坦日経連常任理事が副議長を務めました。同年7月には衆参両院議員約100名が参加するILO活動推進議員連盟が設立されました。1988年10月には日経連主催ILO後援で第1回アジア太平洋地域経営者サミットが東京で開催されました。サミットはその後も定期的にアジア各地で開催されています。
ミシェル・
アンセンヌ
(1989〜99年)
 
八島靖夫
(1990〜92年)
 1990年8月、岩田氏に代わり、東京支局次長であった八島靖夫氏が東京支局長に就任しました。
 1992年1月には、アンセンヌ事務局長が政府賓客として来日しました。
藤井紀代子
(1992〜97年)
 1992年7月、八島氏に代わり、東京支局次長であった藤井紀代子氏が東京支局長に就任しました。
 1993年1月にはILO本部より日本人職員の多数採用をめざし、人事局職員が来日しました。
 1994年にはILO創立75周年&フィラデルフィア宣言50周年を記念し、東京と神戸で講演会が開催されました。同年、日本労働研究機構の協力でアジア労働問題研究機関ネットワーク化プロジェクトが開始されました。
 1997年7〜8月、連合の協力により、アフリカで生産性向上と労働者利益に関する労組指導者を対象とするワークショップが開催されました。これは対象地域を変えながら2000年には第3回が開かれています。
早坂信弘
(1997〜2000年)
 1997年8月、藤井氏に代わり、中央職業能力開発協会の早坂信弘常務理事が東京支局長に就任しました。同年10月には、ILOの第9回国際職業性呼吸器疾患学術会議がアジアで初めて、京都で開催されました。同年11月に神戸で開かれた雇用会議出席のため、アンセンヌ事務局長が来日しました。
 1998年の第86回総会では伊藤祐禎連合参与が副議長に就任しました。同年6月に開かれた第272回理事会では赤尾信敏政府側理事が議長に選出され、1年間議長を務めました。
フアン・ソマビア
(1999年〜)
21世紀に向けて:ディーセント・ワークの推進(1999年〜)
 1999年6月、就任後初のILO総会に提出した事務局長報告の中で、ソマビア事務局長は、21世紀のILOの目標を「全ての人にディーセント・ワーク(人間らしい、まともな仕事)を確保すること」と提案し、次の4つを、この総合的な目標を実現するための柱として活動を進めることとしました。
  1. 基準並びに労働における基本的原則及び権利の推進
  2. 男女が共に人並みの雇用と収入を確保できる機会の拡大
  3. 全ての人に対する社会的保護の拡大とその実効性の向上
  4. 政労使三者構成主義と社会対話の強化
 同年11月、就任後初来日したソマビア事務局長は、日本ILO協会の50周年を記念する講演を行いました。
 2000年4月には、日本人職員増員を目的に、ワイルド人材開発局長が来日し、面接試験や講演を行いました。
堀内光子
(2001〜05年)
 2001年1月、早坂氏に代わり、ILOアジア太平洋総局の堀内光子総局長がジェンダー特別アドバイザー兼駐日代表に就任しました。これと共に、東京支局はアジア太平洋総局の傘下を離れ、事務局長直轄となりました。
 ILOは2002年より、6月12日を「児童労働反対世界デー」として、この問題とそれに対する取り組みに注目を喚起するイベントを世界各地で開催していますが、日本でも毎年この日を中心に、児童労働写真パネル展やNGO等の協力を得たイベントが開催されるようになりました。
 2003年4月1日、一貫性のある効率的な事業運営をめざした地域機構の見直しが行われ、東京支局は国際労働機関(ILO)駐日事務所(英文名称ILO Office in Japan、略称:ILO-Tokyo)に変わりました。詳細はこちら。各地の事務所一覧はこちら
 2003年5月、ILOが実施する「カンボジア及びベトナムにおける児童及び女性の人身売買のコミュニティ・レベルでの防止」プロジェクトに対し、日本政府は国連の人間の安全保障基金を通じ、約121万ドルの支援を行うことを決定しました
 同年12月、東京大学の協力を得て、ILOの社会政策レクチャーが「グローバル化と仕事の未来」を総合テーマに、日本で初めて開催されました。第6回目に当たるこのレクチャーは、1969年にILOが受賞したノーベル平和賞の基金利息を用いて、世界の主要大学と共催で、2年ごとに開かれているものです。ロナルド・ドーア・ロンドン大学教授を主要講師に、日本及び世界の著名な学識者の講演が行われました。
 2004年12月、厚生労働省、国連大学、ILOの共催で、「グローバル化と若者の未来に関するアジア・シンポジウム」が開かれ、2度目の来日となったソマビアILO事務局長が基調講演を行いました。
 2005年9月、ILO駐日事務所(旧ILO東京支局)再開設50周年記念事業として、ILOの歴史写真展とシンポジウム「変化する仕事の世界とILOの現代的意義」を開催しました。
長谷川真一
(2006年〜)
 2006年1月、堀内氏に代わり、ILOアジア太平洋総局の長谷川真一総局長が駐日代表に就任しました。
 2007年の日本の分担金率は、トップのアメリカ(22%)に次ぐ19.485%、7,237万5,815スイスフラン。この他に、1974年度から開始した任意拠出(マルチ・バイ技術協力)に基づく拠出金が2006年度で約2億円(日本の対ILO技術協力の詳細はこちらへ)。
 2007年1月現在、ILOでは専門職以上の日本人職員が39名働いています。この他に、日本の技術協力の一環であるアソシエート・エクスパート制に基づく職員も複数名派遣されています。
 日本政府は脱退後の一時期を除き、創立以来主要産業国の一員として常に常任理事国の地位を占めてきました。現在、労使についても使用者側理事として日本経団連国際協力センターの鈴木俊男参与、労働者側理事として日本労働組合総連合会の中嶋滋国際代表が選出されています。一つの国から政労使三理事が揃って選出されるのは珍しいことです。
 日本が批准している条約数は現在、48。一番最近では、2007年7月に職業上の安全及び健康促進枠組条約(第187号)が批准されています。
 ILO諸会議への日本からの出席者も多く、また逆に国内で開催される労働関係の会議にILOの職員が専門家として招かれることもたびたびあり、ILO創設メンバーである日本とILOは古くから活発で密な関係を築き上げています。

最終更新日:2007年7月24日 作成者:EU 責任者:SH