![]() | ||
![]() |
はじめに
私が労働省に入省したのは、1955年にILO東京支局が再開設された少し前である。労働省時代、ILOのおかげで、国連のフェローシップをいただきアメリカに留学した。毎月ILOにレポートを提出するという義務が課せられ、最終レポート、帰国後のフォローアップレポートを提出し、特にフォローアップレポートは高い評価を受けたことを記憶している。
1.ILOのジェンダー問題への取り組みと日本の対応
ILOは、その設立当初から女性労働者の問題に熱心に取り組んできた。当時、女性労働者は弱い存在として保護すべき対象とされており、1919年の第1回ILO総会において、採択された6条約のうち、2条約は女性労働者の保護に関するものである。1つは「母性保護条約」(第3号、正式名:産前産後における婦人使用に関する条約)、もう1つは「夜業(婦人)条約」(第4号、正式名:夜間に於ける婦人使用に関する条約)である。その後の進展をみると、母性保護は充実、女性労働者に対する夜業禁止はその反対の方向つまり弾力的になってきた。これはILOが保護と平等のバランスへの配慮、つまり母性保護は充実の方向に向かい、一般女性労働者については「弱者としての保護」から「男性労働者との均等取り扱い」に重点が移ってきたことを示している。
1951年には「同一報酬条約」(第100号、正式名:同一価値の労働についての男女労働者に対する同一報酬に関する条約)が採択され、日本は比較的早く1967年に批准した。私は当時婦人少年局婦人労働課に在籍し、日本の情勢を鑑みると、早期の批准はきわめて困難ではないかと思っていたが、強い政治的意思(ポリティカルウィル)があり、批准が可能となった。ただ、条約批准により男女間賃金格差が縮小したと言えないのはきわめて残念である。
1958年には「差別待遇(雇用及び職業)条約」(第111号、正式名:雇用及び職業についての差別待遇に関する条約)が採択された。この条約は、雇用と職業の面で、どのような差別待遇も行われてはならないことを規定した条約であるが、わが国は未批准である。
ジェンダーに関連して、政治的意思が大きな役割を果たした例としては、国連の「女子差別撤廃条約」の批准がある。これは労働分野の男女差別のみならず、あらゆる形態の女性に対する差別を撤廃することを規定した条約で、この批准のための国内の法整備の一環として、当時いろいろ批判もされたが、男女雇用機会均等法の成立にこぎつけた。これについては後ほどまたお話しする。
現在、日本国政府もILOも、共通した認識として、母性保護は必要であるが、女性労働者を一般的に弱者として保護するのは時代遅れであるとして、合理的な理由のない差別を解消することに重点を置いた政策をとっている。
2.女性の政策決定への参画の重要性
現在では、まだまだ諸課題に女性の視点が十分反映されているとはいえない。それを解消するためには、政策決定の場に女性を多く参画させることが必要である。
ILOのフアン・ソマビア事務局長は、就任以来ジェンダー問題に真摯に取り組み、堀内光子駐日代表はそのジェンダー特別アドバイザーに任命されている。ソマビア事務局長自身が、女性のILO総会への参加者については40%を目標とし、総会での女性の発言の増大を直接呼びかけている。しかし今年の総会もその目標が達成されていたといえないし、本日のパネリストも女性の比率が少ない。
これに対し、国際自由労連(ICFTU)では、代議員の50%を女性にする旨の規約改正が行われ、昨年12月の宮崎における世界大会では、各加盟組織は原則男女同数の代議員を出すこととなった。さらに新会長にシャラン・バロー女史を女性として初めて選出した。この面では、ICFTUがILOに先行しているといえる。
すべての場に女性の代表が存在し、女性の視点が政策決定に反映されることの重要性を皆様に認識していただきたいと思っている。
3.男女雇用機会均等法の成立とその後−保護から平等へ
本日御出席になっている前参議院議員の中西珠子氏は、元ILO東京支局次長で、日本では女性の活動の場が少なかった時代に、国際機関では女性が活躍していると勇気付けられた記憶がある。
先ほど少し触れたが、仕事とジェンダーに関して、わが国における最も画期的な出来事と言える1985年の男女雇用機会均等法の成立についてお話しする。私は、労働省婦人少年局長として携わり、法案策定過程はジェンダーバイアス(ジェンダーすなわち文化的社会的男女の性差に基づく偏見)との戦いであった。当時の経営者の中には、「日本企業は、男女異なる取り扱いにより利益をあげてきたので、現在の仕組みをそう簡単にかえられない。」「男女平等は日本の文化伝統になじまない。」と言われる方もいた。労働組合も、「長年、女性労働者を保護する運動を展開してきたのに、国連女子差別撤廃条約を批准するからといって、急に方針を転換することは困難である。」として反対していた。私は、「母性保護は充実させる、女性労働者の夜業の禁止は、ILOも時代遅れといっている。1985年の時点で女性の深夜業禁止は直ちに廃止しないが、将来的には廃止する方向であることを打ち出さないと、国連女子差別撤廃条約も批准できないし、職場における男女均等を進めることも無理である」と説明責任を果たしたつもりだが、反対をなくすことはできなかった。政府内にも、「多くの重要な未批准条約があるのに、なぜ国連女子差別撤廃条約を早期に批准する必要があるのか。」と、条約批准に反対の声も大きかった。四面楚歌といってもいい状況の中で、男女雇用機会均等法の成立、国連女子差別撤廃条約の批准が行われ、女性労働者に対する政策も保護から平等へと重点を移した。
それから20年、日本は男女共同参画社会の形成に向けて進んできたが、これに対するバックラッシュ(反動)も起こっている。成立時批判の多かった男女雇用機会均等法は大改正が行われ、1999年から施行されている。現在二度目の改正を間近に控えているところである。
日本国政府、ILOともに、この分野での活動を充実していくことを期待する。