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ILO創設への道程

 国際労働機関(ILO)は、第1次世界大戦が終結した1919年、最初にパリ、次いでベルサイユで開催された平和会議において誕生しました。このような組織の必要性は、既に19世紀に、イギリスのロバート・オーウェン(1771〜1853年)とフランスのダニエル・ルグラン(1783〜1859年)の2人の工業家が唱えていました。

 彼らの考えは、1901年に設立された国際労働立法協会(本部バーゼル)を経て、1919年4月にパリ平和会議で採択されたベルサイユ平和条約第13編(後のILO憲章)に組み込まれました。

           国際労働立法委員会
国際労働立法委員会写真 設立の動機は、第1に人道的なものでした。労働者の数が増え続けていたにもかかわらず、彼らの健康、その家族の生活、発展には何の配慮も払われず、搾取が続けられ、その状況はもはや見過ごせなくなってきました。この懸念はILO憲章前文に「不正、困苦及び窮乏を多数の人民にもたらす労働条件が存在し・・・」と明記されています。

 第2の動機は政治的なものでした。労働条件が改善されないことには、工業化が生み出した多数の労働者が社会不安を、さらには革命さえを引き起こしかねないと考えられました。憲章前文に、不正は「世界の平和及び協調が危うくされるほど大きな社会不安」を起こすと記されています。

 第3の動機は経済的なものでした。社会改革を行う国や産業は、それが生産コストに直結するため、競争相手より不利になります。憲章前文には、「いずれかの国が人道的な労働条件を採用しないことは、自国における労働条件の改善を希望する他の国の障害となる」と記されています。

 戦場と産業の双方において、労働者が多大な貢献を果たした戦争の終結という事実に関連し、平和会議の参加者によって創設の動機がもう一つ追加されました。その考えは、憲章冒頭の次の表現に現れています。「世界の永続する平和は、社会正義を基礎としてのみ確立することができる」

 ベルサイユ平和条約第13編に組み込まれたILO憲章は、1919年1月から4月にかけて、パリ平和会議の設置した国際労働立法委員会によって起草されました。アメリカ労働総同盟(AFL)のサミュエル・ゴンパース会長を委員長とするこの委員会は、日本(落合謙太郎オランダ駐在公使と農商務省前商工局長の岡実が参加)、ベルギー、キューバ、チェコスロバキア、フランス、イタリア、ポーランド、イギリス、アメリカの9ヵ国15名の代表から構成され、執行機関に政府、使用者、労働者の代表が参加するという唯一の三者構成の国際機関を生み出しました。

労働基準の黄金時代

 ILOは初期の40年間、国際労働基準の設定、適用確保の業務に没頭しました。重要なILO条約のほとんどがこの時期に採択されています。総会は各加盟国より政府2名、労使団体各1名から構成される代表団が出席することになっていますが、1919年10月29日にワシントンで開会した第1回ILO総会では、工業の労働時間、失業、母性保護、女性の夜業、工業の最低年齢と年少者の夜業を扱う6本の条約が採択されました。

 総会によって選出されるILOの最高執行機関である理事会は、半数が政府の代表、4分の1が労働者の代表、そして4分の1が使用者の代表で構成されていますが、ILOの常設事務局である国際労働事務局の初代事務局長としてアルベール・トーマを選出しました。戦時政府で軍需を担当したフランスの政治家であったトーマ事務局長は社会問題に強い関心を持っていました。トーマ事務局長のもとで、ILOは創設当初から活発に活動し、2年もたたないうちに16本の条約と18本の勧告を採択しました。

 1920年の夏、ジュネーブにILOの本部が設置されました。ILOを推進する熱意は急速に冷め、一部の政府から条約が多すぎ、出版物は過度に批判的で、予算が高すぎるとの批判が出たため、すべてを縮小する必要が生じました。そのような中で、国際司法裁判所はフランス政府の圧力にもかかわらず、ILOの担当領域は農業部門の労働条件に関する国際的な規制にも及ぶと宣告しました。

 条約採択の勢いは、1923、24年に少し鈍くなり、その後回復しましたが1930年頃に大恐慌の影響を受けて、再び鈍化しました。1939年までの20年間で、67本の条約、69本の勧告が採択されました。

 1926年のILO総会では、重要な画期的展開として今日まで存続する基準適用監視機構が設けられました。こうして誕生した専門家委員会は独立した法律家で構成され、毎年、基準の適用状況に関する政府報告を審議し、委員会自体の報告を総会に提出しています。憲章にはこの他に、批准条約の遵守を確保するための、申立及び苦情審議手続きも定められています。結社の自由に関する実情調査調停委員会が初めて発動したのは1964年の日本の案件に関してでした。

 13年にわたりILOの存在を世界に強く印象づけた後で、1932年にトーマ事務局長が急死しました。後継者となったイギリスのハロルド・バトラーはILO創設以来事務局次長を務めてきていましたが、着任早々大恐慌とそれがもたらした大量失業の問題に直面することとなりました。この時期、労使団体は労働時間短縮の問題で対立しましたが、大した結果は得られませんでした。1934年にルーズベルト政権下のアメリカが、国際連盟非加盟のままでILOに加盟しました。

 1939年に、辞任したバトラー事務局長の後任として、ニュー・ハンプシャー州知事、米国社会保障庁初代長官を務め、当時ILOの事務局次長であったジョン・ワイナントが第3代事務局長に着任しました。ワイナント事務局長の主な任務は迫り来る戦争に向けてILOを備えることでした。1940年5月、戦火が広がる欧州の中心にあって孤立し、脅威にさらされていたスイスの現状を見た事務局長は、ILOの本部を一時的にカナダのモントリオールに移転する決定を下しました。1941年、ワイナント事務局長はアメリカの駐英大使に任命され、ジョゼフ・ケネディーの後任としてロンドンに赴任しました。

 1941年に第4代事務局長に任命されたアイルランドのエドワード・フィーランは、憲章起草に関わったこともあり、ILOに関する知識が豊富でした。第2次世界大戦のただ中に、41カ国の政労使代表が出席してフィラデルフィアで開かれたILO総会において、フィーラン事務局長は再び重要な役割を演じました。総会で採択されたフィラデルフィア宣言は、ILO憲章の付属文書として、なおもILOの目的を定める憲章となっています。フィーラン事務局長時代の1948年のILO総会では、結社の自由と団結権に関する第87号条約が採択されています。

 ILOの条約・勧告は労働者の物質的、精神的利益の保護を目的とします。当初の重点は労働条件に置かれていましたが、第2次世界大戦後の条約は主として重要な人権問題に焦点を当ててきています。

日本による第87号条約批准書寄託(1965年)
日本による第87号条約批准書寄託写真

技術協力から積極的パートナーシップへ

 1948年にトルーマン政権で重要な役割を演じていたアメリカ人デイビッド・モースが第5代事務局長に就任しました。モース事務局長は1970年まで在任しましたが、この22年間で、加盟国数は倍増し、ILOは全世界的な性格を帯びるようになり、先進国は途上国に埋没した少数派となり、予算は5倍に増え、職員数は4倍になりました。ILOは1960年にジュネーブの本部内に国際労働問題研究所を、1965年にはトリノに国際研修センターを設置しました。1969年、創立50周年を迎えたILOはノーベル平和賞を受賞しました。

 既に30年代初期から各地に諮問・支援ミッションを派遣するなど、基準と技術協力を結びつける活動は早くから見られましたが、モース事務局長時代に、ILOは本格的な技術協力に乗り出しました。60年代初頭の多数の新興アフリカ諸国の誕生、国連拡大技術援助計画と特別基金の統合による1965年の国連開発計画(UNDP)の誕生によって、ILOの技術協力活動は今日の姿を呈するようになりました(写真はエチオピアで傘作りを指導する日本人専門家)
エチオピアで傘作りを指導する日本人専門家の写真
 第6代事務局長となったイギリスのウィルフレッド・ジェンクスは1970年に就任し、在任中の1973年に死去しましたが、この間、東西問題から生じる労働問題の政治化に直面することとなりました。フィーラン第4代事務局長共々フィラデルフィア宣言の起草に当たったジェンクス事務局長はILOについて有する豊富な知識を駆使してこの課題に取り組みました。著名な法律家であったジェンクス事務局長は人権、法の秩序、三者構成主義、そして国際問題に関するILOの道徳的権限を強く擁護しました。ジェンクス事務局長は基準並びにその適用監視機構の開発、とりわけ、結社の自由と団結権の推進に多大に貢献しました。

 ジェンクス事務局長の後任となったのは、フランスの上級政府職員であったフランシス・ブランシャールでした。ブランシャール第7代事務局長はキャリアの最盛期をILOで過ごし、技術協力の大規模な展開に積極的な役割を演じました。外交官であり、信念の人であったブランシャール事務局長は1974年から1989年の15年間、事務局長を務めましたが、予算の25%削減をもたらしたアメリカの脱退(1977〜80年)という危機的状況にもILOに多大なダメージが及ぶのを回避しました。アメリカはレーガン政権初期にILOに復帰しました。この間、ILOは決然として人権擁護の活動に邁進しました。ポーランドが1957年に批准した結社の自由に関する第87号条約の尊重を唱え、労組「連帯」の正統性を100%サポートすることによって、ILOはポーランドの独裁政権からの解放において大きな役割を演じました。

 1989年、冷戦後の初の事務局長としてベルギーの雇用労働相、公務相を務めたミシェル・アンセンヌが第8代事務局長に就任しました。1993年に2期再選を果たしたアンセンヌ事務局長は、自らの主たる責任はILOが75年間にわたり持ち続けた道徳的権限、専門能力、運営効率をすべて伴ったままで21世紀を迎えるよう導いていくことであると表明しました。新しい課題のもとで、アンセンヌ事務局長は、経済発展と社会開発に関する主要な国際的な話し合いの場で社会正義を議論の中心に据えるため、ILOに十分な役割を演じる手段を備えることを目指しました。こうして1998年の総会で「労働における基本的原則及び権利に関するILO宣言」が採択されました。アンセンヌ事務局長のもとで、ILOは積極的パートナーシップ政策を採用し、活動や資源のジュネーブからの分散を図りました。

 1999年3月に、第9代事務局長として就任したチリ出身のフアン・ソマビアは、社会と経済の開放が「普通の人々とその家族にもたらす真の利益が均衡する限り」、開かれた社会と開放経済を推進する国際的な合意を支持するとしました。初の南半球出身の事務局長として、ソマビア事務局長は、「世界の新たな現実の中で、ILOの価値を普及させるため、政労使の三者体制を刷新し、その舵取りを支援」していく意向を表明しています。ソマビア事務局長のもとでILOは、人権と労働、雇用と収入、社会的保護、社会対話の4領域を戦略目標に、21世紀に向けて、創立以来の使命をより効果的に果たしていく道を探求し続けています。


最終更新日:2000年3月21日 作成者:EU 責任者:NH