自然災害
東日本大震災後における暮らしへの復帰
2011年の津波によって壊滅的な被害を受けた町の住民による事態収拾に向けた努力は、災害復興期において仕事がどれだけ決定的に重要かを示しています。
![]() |
前川さんの食堂は料理を提供しているだけでなく、人々が話をして交流し、友達を作り、経験を共有する場にもなっています。釜石市に壊滅的な打撃を与え、前川さんのお嬢さんを含む886人の住民の命を奪った2011年3月の津波後に人々が何とか前向きに生活していくのを手助けする場となっています。
ようやく心を開いて悲しみと向き合えるようになってきました。" |
東日本大震災の地震と津波が日本に打撃を与えてから2年が経ちました。死亡者は1万8,000人を超え、約84万1,000人がこの大災害によって仕事に影響を受けました。その後、雇用の回復と再建に向けた努力が官民両部門で幅広く展開されてきました。
ILOは日本政府の支援を受けて2012年8月に「東日本大震災からの復興における雇用労働対策の国際公共財としての発信」技術協力プロジェクトを開始しました。この雇用労働教訓発信プロジェクトは、再建過程で得られた雇用・労働対策に係わる好事例と学んだ教訓の収集・普及を目的としています。2014年に日本で開かれる会議では、作業を通じて得られた情報に基づいて作成された報告書が発表されます。
これは日本で実施される初めての技術協力プロジェクトであり、プロジェクトの専門家グループ会合の一環として2013年3月に政府及び労使団体の専門家7人が、最も津波の被害が大きかった場所の一つである釜石市の復興状態を見るために同市を訪れました。バングラデシュ、カンボジア、インドネシア、マレーシア、パキスタン、フィリピンからやって来た専門家たちは津波を生き抜いて中小企業を経営している人々と会いました。
災害時の仕事は収入だけでなく人間の尊厳ももたらします。" |
前川さんの民宿は津波によって破壊されました。ご主人は漁業で生計を立てていましたが、これも影響を受けました。最初の2、3カ月間、前川さんは茫然自失の中で過ごしました。その後、政府の提供する短期技能訓練を幾つか受講しました。当時を振り返って前川さんは、「あの頃、何かすることがあって良かったです。政府の講習は自分が今まで持っていなかったような技能を提供してくれました。その上、講習に行くことによって、とても難しい時期に何かやることが与えられましたから」と語っています。
次第に、古い友人やお客さんから連絡が入り、民宿をいつ再開するか尋ねられるようになりました。「後ろを振り返っているばかりではなく、前を向こうと決心したのはその頃です。家から出て何かしなくてはと気づいたのです。その何かというのが仕事でした」と前川さんは言います。そこで彼女は古い友人と一緒に、地元の商業会議所の支援を受けて被災後に建造された仮設市場で新たに食堂を始めました。
ある意味日本はラッキーでした。震災が起こった時には既に包括的な社会的保護の仕組みが整備されており、政府は既存の仕組みを用いて雇用及び生計手段分野の支援を被災者に拡大することができました。この既存の仕組みがなかったならば復興努力はもっと時間がかかり、もっと高くついたことでしょう。
![]() |
前川さんには地域社会再建の明確なビジョンがあります。「2、3年後には仮設避難所から住民がこの町に戻ってくるでしょう。今は何もかもが流されてしまった町に夜は灯りがありません。でも、私がここで民宿を再開する頃には、この町に灯りを取り戻したいのです。私を仕事に駆り立てているのは娘を失った喪失感に加え、人々の期待と希望なのです」と前川さんは語っています。
ILO雇用労働教訓発信プロジェクト チーフ・テクニカル・アドバイザー小山淑子
(本文は英語原文をILO駐日事務所で翻訳したものです。)